2022/08/11

yoko from yokohama yokosuka

「アンタあの娘の何なのさ」
1975年(昭和50年)は区切りのような年で歌謡は不作でした。特に印象に残るヒット曲が少なく、一言でいえば空白期、レコード大賞をとった「シクラメンの香り」すら記憶にありません。1970年代の10年間は歌謡の黄金時代だといわれますが、山は前半と後半で2回あり、1975年は谷間のような時期だったと思います。 リンダもアグネスも見かけなくなってしまったし、キャロルは解散し、フィンガー5はアキラくんが変声期に入ったとかでテレビに出てきませんでした。75年4月に20年続いたベトナム戦争は終結、ウルトラマン(帰ってきたウルトラマン~レオまで、1971.4.2~1975.3.28)も終了、そしてついには仮面ライダー(初代~ストロンガーまで、1971.4.3~1975.12.27)まで年内で放送終了、 小学校2年から3年生にかけて、幼年期の終わりとともに一つの時代の終わり(昭和40年代の終わり)を強く感じていた記憶はあります。 そんな停滞気味の時代の節目のような時期、 この頃、ガキンチョの興味を引いたのがダウンタウンブギウギバンドです。 サングラスにリーゼントのツナギファッションのお兄さんがギター弾きながら歌ってて鮮烈な印象を持ちました。 生真面目な青春歌謡界においてダウンタウンブギウギバンド(DTBWB)の登場はフザケてて面白かったんですね。ちょっとした痛快さも感じました、音楽ってそういうもんでしょ。(歌謡界って職業作家がレコード会社からの依頼で仕事として歌手の作品を提供するものだから業界の構造的にあんまり実験的で突拍子もないものは生まれ難いという傾向はあります) 最初にヒットしたのが「スモーキン・ブギ」(1974年12月5日リリース、最高位:4位、50.5万枚)で とにかくどこでもタバコを吸いまくる詞の内容も面白くって私もよく口ずさんでましたが、ちょっとコミカルなヤンキー路線は 後のツッパリブームの原点になります、田舎の小学校でもリーゼントにレイバンのサングラスかけて職員室でタバコ吸ってる教員はいましたよ。スモーキン・ブギの次のシングルが「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」、 これは、ブギースタイルのギターリフにのせて、港町の繁華街にいるやさぐれた雰囲気のチンピラのような喋り口調で歌われるスタイルも画期的だし、 ヨーコを探す主人公がじょじょにヨーコへと近づいていくドラマのような展開にも引き込まれていきました。最後に汽笛がボーッとなるので、横須賀から船に乗るといえば米軍基地ですから、 結局ヨーコに逢えることは叶わず、ヨーコは軍艦に乗ってアメリカに行ってしまったんだ、とずっと思ってましたが、どうなんでしょう(?)。 これが1975年4月20日にリリースされ、6月から7月にかけてオリコン5週連続1位、80万枚超の特大ヒットを記録、 wikiによると(*)当初はカッコマンブギがA面で港のヨーコはB面扱いだったが、発売前に表題曲が有線チャートで急上昇したため、発売1か月後に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をA面に格上げして再発売したらしいです。(*wiki)つまり再発盤は両A面ということになります、「カッコマン・ブギ」は1975年3月25日発売(?)、ジャケットは2種類ありますが、どちらも両曲のタイトルが並べてあるだけでどちらがA面なのか区別がつきません、おそらくよく知られてるシングル盤史上もっともいい加減なジャケット(白い画用紙にマジックでタイトルを書いただけ)は再発盤でしょう。 「港のヨーコ」は阿木曜子(29才)、宇崎竜童(28才)の名を世に知らしめた楽曲で、阿木曜子の作詞家デビュー作でもあります。 この曲が日本の歌謡史に与えた影響は非常に大きく、 中でも一人の作詞家と一人の女性歌手に衝撃を与え、創作意欲をかきたてることになり、70年代の歌謡界の後半戦を大いに盛り上げていくことになるんです。曲の元ネタはロリー・ギャラガーがいたバンド、Taste / Same Old Story(1969年発表)ですからブルースロックがベースにあるわけなんですが、アメリカで黒人の音楽であるブルースをルーツにして、敗戦後の体制下における日本人ならではのブルースとして昇華している(象徴としての横須賀)のだから見事というしかないです。 偉大な作品ですが、宇崎竜童によると、 ある日、宇崎が自宅に戻ると、スーパーのチラシの裏に鉛筆で走り書きされた妻・阿木燿子による詞がコタツの上に置いてあった、といいます。

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」


一寸前なら憶えちゃいるが
一年前だとチトわからねエなあ
髪の長い女だって、ここにゃ沢山いるからねエ
ワルイな、他をあたってくれよ
アンタあの娘の何んなのさ!
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ

半年前にやめたハズさ
アタイたちにゃアイサツなしさ
マリのお客をとったってサ、そりゃもう大さわぎ
仁義を欠いちゃいられやしないよ
アンタあの娘の何んなのさ!
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ

ハマから流れて来た娘だね
ジルバがとってもうまくってよお
三月前までいたはずさ、小さな仔猫を拾った晩に
仔猫といっしょにトンズラよ
どこへ行ったか知らねエなあ
アンタあの娘の何なのさ!
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ

横須賀好きだっていってたけど
外人相手じゃカワイソーだったね
あんまり何んにも云わない娘だったけど
仔猫と話していたっけねエ
前借り残したまんま、一月たったらおサラバさ
アンタあの娘の何なのさ!
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ

たった今まで坐っていたよ
あそこの隅のボックスさ
客がどこかをさわったって店をとび出していっちまった
ウブなネンネじゃあるまいし
どうにかしてるぜあの娘
アンタ あの娘に惚れてるね
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ

作詞:阿木燿子
作曲:宇崎竜童
発売:1975年4月20日、初版1975年3月25日(?)
レーベル:東芝EMI
価格:500円
最高位:1位(5週)




年下の男の子
キャンディーズはドリフ(8時だよ全員集合)にアシスタントとして出演していた、ドリフターズとはナベプロつながりですね、ドリフのコントの合間に歌も披露していたし、コントもこなしていた、じょじょに認知されていき、 気が付いたらそこにいたみたいなアイドルグループです。結成時期がはっきりしないんですよね、調べたら(*)スクールメイツ出身でNHKの番組「歌謡グランドショー」にマスコットガールとして起用された際にキャンディーズと命名されたらしい。(1972年4月)、その後、松崎澄夫(exアウトキャストの轟健二)プロデューサーの目に留まり「あなたに夢中」で歌手デビュー(1973年9月1日)、これをテレビで見た作曲家・穂口雄右(26才)の目に留まり、2枚目のシングル「そよ風のくちづけ」(1974年1月21日)から楽曲制作に携わっていくことになる。一方ドリフには1973年4月7日放送回には参加してますから、志村けん(1973年12月8日から)より早く荒井注時代のドリフには出演していたことになります。(*wiki)、ブレイク前の時期ですがドリフは誰もが見てましたから、一般への認知度は高かったと思います。私もこの頃センターで歌ってたスーちゃんの記憶はあります。たしかいかりやが3人に向かって「歌手デビューしたんだよね」とか言ってた気が、、、、さて、節目の年にキャンディーズも転機を迎えます、「年下の男の子」(1975年2月21日)は5枚目のシングルですが、 この曲から センターがランちゃんになってリードボーカルも担当して、ハンドマイクをスタンド式に代え、 カメラ目線で「好きなのぉ💛」って歌うから「ドキッ」てなりましたよ、ランちゃん、これ男の子ならやられるよ、そうそう始めてアイドルを意識したのは伊藤蘭だった様な気が、、 アイドルの王道路線(視聴者を恋人と想定)なんだけど、オレオレオレオレオレの事を歌ってるんだと思った男の子は多かったはず、昔はテレビの中の世界と現実の区別がついてない子もいました、、、この曲で年下をターゲットにしてついにブレイク(売上は累計50万枚)ここからが新生キャンディーズの始まり(ジャーン)、そういやうちの近所に怖いヤンキー兄ちゃんがいて、ケツに大きく「蘭」の入れ墨を入れてたな、それほどの名曲、 年下の男の子というコンセプトはランちゃん(20才)を前面に押し出した「お姉さん」路線からの着想ですが、これ営業戦略上とても鋭い着眼点で、 75年末に発売され翌年に大ヒットした「およげ!たいやきくん」(オリコン史上最高の売り上げ、370万枚)や後のピンクレディーの成功でも子供層には膨大な市場があることが知られるようになります。昭和40年代生まれならわかると思いますが、音楽コンテンツに限らず、70年代中盤頃から、 急速に豊かになって過去にはなかった新商品(音楽、漫画、映画、玩具、家電、服、車、エロ、etc)があふれ出してきたから(当時の親世代はついていけてなかった)、商品広告も子供(若者)をターゲットにしたものが多かったな、70年代も半ばごろになると小学生がレコード買うのも普通になってきます。昭和50年だからシングル・レコードが500円、500円紙幣が流通していた時代ですよ、翌年の昭和51年には600円、昭和55年には700円、豊かさに比例して値段も上がっていきます。 キャンディーズの制作側の布陣を見ればお気づきかと思うが、GSのバンド、アウトキャストのメンバーたちによるものなんです。 ビートルズの来日(1966年)によって60年代の後半に日本でGSブームというものが起き、そこで多くの和製バンドが生まれますが、70年代初頭ではバンド活動では食っていけず(受け皿がないのでビジネスとして成立しない)、そこから音楽業界に進んだ者も多くいた(プロデューサー、作詞家、作曲家、スタジオミュージシャン、etc)彼らは歌謡の音楽制作に携わっていくことになりますが、ロックを体験した世代が音楽業界に入って音作りを担っていくことになるんですね(つまりロックが歌謡に取り込まれていくということ)、 この制作側(売り手)とリスナー(買い手)の構造は80年代以降より強くなって続くことになります。彼らが若者を通してさらにその下の世代の子供たち相手に商売をするという、狙いうちにされてるような感覚はありましたよね。

「年下の男の子」


真赤な林檎を頬ばる
ネイビーブルーのTシャツ
あいつはあいつは可愛い年下の男の子

淋しがり屋で 生意気で
憎らしいけど好きなの
L・O・V・E 投げキッス
私のこと好きかしら
はっきり聞かせて
ボタンの取れてるポケット
汚れて丸めたハンカチ
あいつはあいつは可愛い年下の男の子

デートの時間に遅れる
いつでもけんかをしかける
あいつはあいつは可愛い年下の男の子

忘れん坊でわがままで
意地悪だけど好きなの
L・O・V・E 投げキッス
私のこと好きかしら
はっきり聞かせて
片方なくした手袋
ほどけたまんまの靴ヒモ
あいつはあいつは可愛い年下の男の子

淋しがり屋で 生意気で
憎らしいけど好きなの
L・O・V・E 投げキッス
私のこと好きかしら
はっきり聞かせて
ボタンの取れてるポケット
汚れて丸めたハンカチ
あいつはあいつは可愛い年下の男の子

作詞:千家和也
作曲・編曲:穂口雄右(ほぐちゆうすけ、exアウトキャスト)
ギター:水谷公生(みずたにきみお、exアウトキャスト)
ベース:武部秀明(exアダムスの千原秀明)
ドラム:田中清司(たなかきよし)
リリース:1975年2月21日
レーベル:CBSソニー
価格:500円
最高位:9位




はじめての出来事
「♪くち~づけ~のそのあとで」ってあれは何という曲だったっけ?桜田淳子唯一のオリコンチャート1位のヒット曲で 人気曲ではあるんだけど、私は長らくこの曲を忘れていて30数年ぶりくらいでふと思い出した曲、 歌謡曲って大概そうなんですが大ヒットしたわりには顧みられる機会が少なくて、 それでも幼少の頃の流行歌ってある日突然降りてくるから不思議、既にネットも普及していて歌詞の一節を覚えていれば検索できますから、レトロ好きの向きには便利な世の中になったものです。 すぐにYouTube動画も見つかり、タイトルもずっとわからなくてその時に初めて知った。  微笑み天使こと桜田淳子(本名:桜田淳子)さんは中2(14才)の時に「スター誕生!」に応募して (*)1972年7月19日の秋田県民会館で行われたテレビ予選で番組史上最高得点となる573点で合格、第4回決戦大会において歴代最高である25社からの芸能プロダクションおよびレコード会社からの指名を受けてチャンピオンに(*wiki) 「歌が上手い」ではなく「親しみやすい」「可愛らしい」「キラキラ輝く」といった今日のアイドル☆スター像のイメージを形作った元祖アイドルと言えます。何しろスター誕生での登場が鮮烈であまりにもアイドルとして理想的だったので、淳子ちゃんを見たまま浮かんだイメージを音楽やプロモーションで具現化していったというのですから、、 阿久悠は初めて桜田淳子を見たときの印象を 「テレビ時代のスターを決定づけるだけの効果があった」と興奮気味に自著で語っています。 そのため桜田淳子との出会いの余韻も醒めやらぬなか、それから3ヶ月後の第5回決戦大会に出場した百恵ちゃんに対して阿久悠は少々辛口評価になるんだけど(後述) それほど淳子さんはデビュー当初が最も可愛かったし輝いていました。いわゆる美少女、私にも同様の記憶があります。(引退時がピークの百恵ちゃんとは対照的)、 トレードマークだったキャスケット(エンジェルハット)を被った「天使も夢見る」の映像がYouTubeでも見れますがとても可愛らしいですね。 阿久悠は「彼女こそ現代の天使」だと公言してデビュー時から寵愛しており、 1作の例外を除き、デビュー作の「天使も夢見る」から20枚目「もう戻れない」まで作詞を担当しています。 コンセプトは「少女の成長記録」路線ですから、淳子さんがシングル曲を発表するたびに、聴き手は 「インコ飼ってるんだ」「あぁ好きな人がいるんだ」「占いに凝ってるんだ」「恋人ができたんだ」「別れたんだ」「もう17になるんだね」「また好きな人ができたんだ」「また別れたんだ」、、、 などとお茶の間に近況日記を報告するかのように、えんえんと少女の成長記録を堪能することができるようになってます。(桜田淳子のシングル曲をつなげると一つの物語が完成することを解析したサイトがありますので下にリンク貼っときます。)、まあこの物語の最終章は「結婚」だけれどとんでもないオチがついて世間を騒がせるような事になるんですが、、、、一つ一つはなんてことのない他愛のない歌でも少女の成長物語として全体が繋がっていると、購買層であるファンも作品と一緒に成長していくこととなって、ファンは離れていかなくなり、結果として長く広く愛される事になります、後の松田聖子(詩作は松本隆)などでも踏襲されるアイドルの王道路線ですね。 「はじめての出来事」は、同級生で親友だけどライバルだった百恵ちゃんがあまりに大胆な歌詞で攻めてくるので、焦った阿久悠が淳子さんにそろそろキスをさせようとしたのか、「はじめて~」より半年前にリリースされて大ヒットしていた百恵ちゃんの「ひと夏~」の影響は確実にあるでしょうね、当人同士は親友でも制作サイドでは競い合っていたといいますからね(ソニー VS ビクター)、タイトルからして「ひと夏の」→「はじめての」、「経験」→「出来事」、つまりどちらも「初体験のこと」ですし、 百恵ちゃんと同じ状況下に置いた場合、淳子ちゃんならどうなるだろう?、ウブで未だぎこちなさも残る天使だから、 「♪あげるわ~」とはならない、「♪汚れてもいい」なんて言わない、淳子版「ひと夏の経験」は、はじめてのキスで真っ赤になって動揺して「♪どうし~ていいのかわからない」となります。といってもキスだけなんだけどね、、、清く正しく美しく、なんてったってアイドルを地で行く淳子、 百恵ちゃんとは実に対照的なタイプですね。本来ならこちらが(阿久悠的には)健全な16才で、百恵ちゃんやピンクレディーの方がよほど異端なんですけど、そこは歌の世界、当たり前の事を歌で追及しても面白くもないですから、ヒットに結び付くかといえばまた別問題で、阿久悠は「ぼくらは桜田淳子に対し、まるで親か先生のように、一歩一歩年齢の階段を上らせ、それにふさわしい歌を与えようとしていたが、ここはやはり、親でも先生でもなく、日常を超越させる演出家であるべきだったかもしれない。」 と清純派一辺倒でヒットを続けていく事の難しさを語っています。 似たようなのが続くと飽きますからね、どうプロデュースしていくべきだったかはどこかのアイドル専門家に任せるとして、、、、路線といえば、当の淳子さん本人はどこまで意識していたかは興味がつきないとこではあります、親友に山口百恵がいて、作家に阿久悠がいる環境下で 自分の歌はどうあるべきかという意識をもたないはずはないだろうから、 おそらく淳子さんは自分に忠実であることに意識的にこだわり続けたのではないでしょうか、という気がします。コンサバティブで潔癖症なとこありますよね。 スター論になってしまうけど万人受けを持続するのって相当高いクオリティを常に要求されますから、大変だと思いますよ。 ともあれ淳子さんはアイドルとしては十分すぎるほど成功してるし(シングルは累計で600万枚近くを売り上げ、トータルで18曲がベストテン入り)、トップアイドルとして長きにわたり親しまれてきました。 「彼女ほど何に対しても素直で真剣な女性を私は知らない。自分を追いつめないで」とは百恵ちゃんによる人物評、純真、懸命、真面目、淳子さんてたぶんそういう人、 1975年を境にして例の鼻にかかったような歌声に変わっていきますが、この頃は変わる前で私は初期の拙い歌声のほうが好きです。私的に「わたしの青い鳥」、「はじめての出来事」がベスト、 作曲者である森田公一の作品は非常にポップでリズミカルな可愛らしい曲が多いですね。他にも天地真理、アグネスチャンなど、ローティーンアイドルポップサウンドを確立した代表的な作曲家だと思います。 この曲は1974年の暮れに発売され、1975年の初頭に大ヒット、1975/1/6日付で4位、1/13日付で2位まで上昇し、首位を爆走していた百恵ちゃんの「冬の色」と争って2/3日付で念願のチャート1位に(4、2、2、2、1、4)、ジャケットは得意のガッツポーズ、 1975年(昭和50年)は淳子さん絶好調の時期でシングルレコード売り上げ年間第1位、ブロマイドや各種人気投票でも女性歌手部門で1位に、「十七の夏」他、一連のヒット曲で第17回日本レコード大賞・大衆賞を受賞しました。

「はじめての出来事」


くちづけのその後で おしゃべりはしないで
泣き出してしまうかも
それほど心はゆれている
あゝあなたには何気ない事件でも私は
世の中が変るほど
大きな出来事だったのよ

大人びたふりをして ここまでついて来たが
はりさけるときめきで めまいがしそうよ
好きよ 好きだから怒れない
あなたのことを

声かけて呼ぶまでは この場所に来ないで
このふるえなおるまで
私をひとりにしておいて
あゝ悲しくはないけれど あまりにも突然
くちづけをされたから
どうしていいのかわからない

大人びたふりをして ここまでついて来たが
耳たぶも熱くなるはげしいはじらい
好きよ 好きだから帰れない
あなたをのこし

作詞:阿久悠
作曲:森田公一
編曲:竜崎孝路
リリース:1974年12月5日
レーベル:ビクター音楽産業
価格:500円
最高位:1位




ひと夏の経験
そう二人は双子の姉妹のようだった、桜田淳子は阿久悠の寵愛を受けていました。 70年代の歌謡史を山口百恵(本名:山口百恵)視点で見るとき、それは巨大な阿久悠帝国に挑んだ14才の少女といった構図が浮かび上がってきます。百恵ちゃんの8年の芸能活動は阿久悠との抗争史でもありました。 スター誕生で審査員である阿久悠に辛辣なこと「青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌は・・・・・・・あきらめたほうがいいかもしれないねェ」と言われて僅かながら持ち合わせていた自信はガラガラと音を立てて崩れてしまったという(山口百恵「蒼い時」より)、 阿久悠は「あれは妹役程度の女優にしかなれないの意味ではなく、妹役になら何の努力もなく、この場からドラマのスタジオに連れて行ってもすぐに存在感を示せるの評だった」、と後に回想している(阿久悠「夢を食った男たち」より)、 これが両者の確執の要因かは定かではないが阿久悠は生涯、山口百恵に詞を提供することはなかったし、百恵ちゃんサイドからの依頼もなかった、後に阿久悠は山口百恵の類まれな独特の魅力に気づき、ファンであることを明かすことになるんですが、スター誕生の時点ではいかに阿久悠といえど出会って数分程度でそこまで見通せるものでもないでしょう。 スター誕生(1973年)での山口百恵の映像はYouTubeに上がってますので、ここは各自が阿久悠に代わって審査してもらってもよいと思いますが、、この時点での阿久悠の評価も無理からぬものだと私は思います。(正確なやりとりは不明だけど審査員としては失態)、 ただ公開の場での辛辣な批評(と百恵ちゃんは受け取った)は本人の自尊心をひどく傷つけたという事なのか恐らく百恵ちゃんは言われて 敵愾心を燃やすタイプなのか、、 貧しい母子家庭で父親を否定して生きてきたという自負もあったのかもしれません。 自著「蒼い時」にあるエピソードで強烈なのが、百恵ちゃんが高校生の時、~授業中に担当教師が百恵ちゃんの机の前まで来て「娘がファンでね、サインがほしいんだよ」、次の授業の時間にも「ヘェ、あんた可愛い時計をしてるねェ」 と言ったのを、これが教師の言葉だろうか、許せなかった、こんな教師に何かを教わるのも嫌だった。と許すことができずに、その教師の授業を全面的にボイコットし、その教師の授業の際は教室を移動せずにひとり教室に残って本を読んでいた。それは卒業まで続き、通知表のその教師の担当科目である商業の箇所には赤字で「番外」と書かれたまま高校を卒業した~ というのだから 凄絶というか傑出した気性の一面が窺い知れます、この人は菩薩というより修羅ですね。ステージでみせる気迫はやはり伊達ではありません。
 実の父親を否定するということは自分自身をも否定する事にもつながりますので、凄まじい葛藤があったと思いますよ、普通の家庭にはない苦悩を 背負わされてそれでも前を向くしかない 、そういう事も若くして悟っていたような気もします。引退する際に「幸せになります」と言い残してますが、裏を返せば芸能活動も含めたそれまでの人生は「幸せではなかった」という事にもなり、 腹を括った真剣勝負をしていたんだろうな、と妄想してしまいます。(あくまで個人の妄想ですが)、でもそんな気がします。 百恵ちゃんも声が変わっていった歌手ですが、歌がめざましく上手くなり艶やかな色っぽい歌唱に変化していきますね。 百恵ちゃんの開花に至るプロセスには段階があって、一般的によく知られる開花期は「横須賀ストーリー」(1976年)ですが、その前に「ひと夏の経験」(1974年)があってこれが最初の開花に至る兆候が如実に現れた作品で「青い性」路線期のもの、 キャンディーズのランちゃん(20才)は年下相手に「好きなのぉ」で、子供がドキッとしましたが、 百恵ちゃん(15才)は大人相手に「あ~な~たに お~ん~なのこ~の~いちばん たいせつ~な~ものをあげるわ~💛」と直立不動、無表情、低音の地声でこれです、15ですよ?、さすがスケールが違います、これは大人がドキリとします。ビクッとするかもしれない。当時小2の私ですらものすごく気になった記憶があります、「女の子の一番大切なものって何だろう?百恵ちゃんはいったい何をくれるんだろう?」って、それは「真心です」と百恵ちゃんは言ってた、、かな、、、この曲はインパクトありましたね。 都倉さんが言うには「我々が彼女をプロデュースするのではなくて、我々の方が彼女のテリトリーに入っていってやる。そうするとスゴイことになる。それに気がついたのが「ひと夏の経験」です。」つまり百恵ちゃんの持つ資質に気づき、彼女の持つ世界に入っていったその最初の成果がこの作品という事になります。 都倉さんの指摘に「山口百恵は不思議な子で、ちょっと話しただけで別れた後に余韻を残す」という表現があるけど、私が百恵ちゃんの「ひと夏~」に感じていたのがまさにコレで、深い余韻がいつまでも残るんです。 (wikiによると(*)「青い果実」から始まる青い性路線の初期に既に完成されていた曲であり、元タイトルは「甘い誘惑」(*wiki)とあるので73年中、14才の時には録音はされていたということに?)、「青い果実」や「ひと夏~」などの青い性路線に関しては、「大人が子供にこんなに如何わしい歌詞の歌を歌わせて、」などと言って千家先生を責める向きもいますが、それはお門違いの指摘で、本人が自ら選んでスタ誕で歌った「回転木馬」にしても相当如何わしい歌ですよ。つまり青い性路線は「回転木馬」の延長線上であって、 百恵ちゃん自身がこういうきわどい路線が好きなんだと思います。好きだから歌ってます。 この頃から百恵ちゃんのどことなく、カメラに向かって啖呵切ってるような雰囲気は好きでしたね。ズドンと腰も据わってる感じだし、ただのアイドルとは全然別物、世の中にはなんか凄いお姉ちゃんがいるんだなあ(ドキドキ)と幼心に焼き付いた覚えがあります。 百恵ちゃんの場合、発言も全然ぶれないんですよ。そして大人が驚くほどに礼儀作法がきちんとしていた。 阿久悠はこの曲で百恵ちゃんに対する評価を修正しなければならないと実感した、といいます。 冒頭のメロディは「コンドルは飛んでいく」(El Condor Pasa、1970年)との近似性が指摘されますがフォルクローレ調の物悲しいメロディとともに 静かな衝撃とも何か秘め事めいた只事じゃない感は後の百恵神話を予感させるものでした。 YouTubeのコメントに非常に上手い表現がありましたので紹介しておきます。 ~この曲を初めて聞いた時は未だお子ちゃまだったので、意味は全然わからなかったけれど、この曲にはサンダーストームというか超絶激しい雷雨のイメージを感じていました。~、そう嵐の中で煌めく稲妻のイメージ⚡、 「ひと夏の経験」は74年の夏にリリースされ、累計売上は75万枚の大ヒット、(最高位3位だけど、6/17~9/12までの約3か月にわたりトップ10入りするというロングヒット、(ちなみに「ひと夏の~」が3位だった時の1位:殿さまキングス「夫婦鏡」、2位:中条きよし「うそ」ですが、こちらは記憶にないです。)、第16回日本レコード大賞・大衆賞を受賞します。 百恵ちゃんはデビューからたった1年(15才の時に)にしてトップアイドルに上りつめました、さらにその年の暮れにリリースした「冬の色」で初のオリコンチャート1位(5週)を獲得することとなり、翌1975年にかけて大ヒット、74年の暮れには初主演映画「伊豆の踊子」も公開されてます。映画も1975年度の興行収入第3位の大ヒット(うろ覚えですが1974年の後半から百恵ちゃんはブームになっていたと思う)人気を不動のものとします。

「ひと夏の経験」

(映像は第16回日本レコード大賞(1974.12.31)より、ステージ左から、山口百恵(15才)、殿さまキングス、梓みちよ、中条きよし、森光子(司会))

あなたに女の子の一番
大切なものをあげるわ
小さな胸の奥にしまった
大切なものをあげるわ
愛する人に 捧げるため
守ってきたのよ
汚れてもいい 泣いてもいい
愛は尊いわ
誰でも一度だけ 経験するのよ
誘惑の甘い罠

あなたに女の子の一番
大切なものをあげるわ
綺麗な泪色に輝く
大切なものをあげるわ
愛する人が 喜ぶなら
それで倖せよ
こわれてもいい 捨ててもいい
愛は尊いわ
誰でも一度だけ 経験するのよ
誘惑の甘い罠

作詞:千家和也
作曲:都倉俊一
編曲:馬飼野康二
リリース:1974年6月1日
レーベル:CBSソニー
価格:500円
最高位:3位




ルージュの伝言
歌謡ではないけれど私がもうちょっと早く生まれていたなら、確実にハマっていただろうアーティストが荒井由実(20才)、私にとってのユーミンとは「守ってあげたい」や松田聖子の「赤いスイートピー」の作曲者としての松任谷由実のことで80年代以降のものであり70年代の荒井由実の作品を知ったのは、ずいぶん後になって(社会人になって)からでした。というのも私のようにピンクレディーやジュリー(1977年頃)から音楽を聴くようになった世代だと、70年代の後半にはすでに荒井由実としての第一次ブーム(1975年~1976年)は終わっていて結婚して松任谷姓になってしばらくはセールス的に不調期に相当、「紅雀」(1978年)~「SURF&SNOW」(1980年)まで)「卒業写真」などの有名曲は知っていてもすでに過去の人という認識でした(それでも天上人のような存在ではあったけど) ユーミン・ブームが再来するのは通算12枚目のアルバム「昨晩お会いしましょう」(1981年)まで待つことになり、私世代だと少年少女時代に「昨晩お会いしましょう」や「パール・ピアス」からスタートしたファンが多いと思います。ただその頃も私的にはOLや女子大生の教祖という捉え方がされており食指を動かされませんでした。(いつも凄い恰好してるし、) ずいぶん後になって音楽雑誌の特集(細野晴臣~キャラメル・ママ~ティン・パン・アレー)の文脈でデビュー作の「ひこうき雲」(1973年)を知りどっぷり荒井由実の世界に浸る事になるんですが、タイミングといいますか巡り合わせでしょうか、70年代後半はユーミンとは入れ替わりで中島みゆきの絶頂期(「愛していると云ってくれ」(1978年)~「寒水魚」(1982年)まで)でしたから、リアルタイムではみゆきさんのアルバムのほうに慣れ親しんでおり、(みゆき、サザン、YMO、山下達郎などと比較するとユーミンは80年代には出遅れた感があります)、荒井由実に出会うまでには随分遠回りをすることになったのでした。さて、1975年はユーミンが最初にブレイクした年でもあります。 ハイ・ファイ・セットに提供し彼らのデビューとなった「卒業写真」(1975年2月)チャートインはしませんでしたが、 卒業式の定番ソングとなります。バンバンへの提供曲の「いちご白書をもう一度」(1975年8月、最高位:6週間1位、累計売上:75.1万枚)これは大ヒット、他にもアグネス・チャンや郷ひろみ、太田裕美などへも曲を提供、 自身では1975年6月に3枚目のアルバム「コバルトアワー」をリリース さらに1975年10月発売の6枚目のシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ「家庭の秘密」主題歌)が、自身初のオリコンチャート1位(2週、累計61.5万枚)を獲得し広く一般層にも知れることとなります。 驚異的な才能なんですが、 卒業、学生運動への鎮魂、青春への郷愁、こういったテーマの作品が時代の節目の年に出るのがなんとも神がかってますね。 「ルージュの伝言」(累計:6.9万枚)は75年2月発売の5枚目のシングルですが、ブレイク前夜の最初にヒットしたシングルということになります。 これは本人によると最初から60年代アメリカンポップスを意識して作った作品でコニーフランシスの「カラーに口紅(Lipstick On Your Collar)」(1959年) からイメージを派生させていったんだとか、リップスティックをフランス語のルージュ(紅)に換えて、 エリザベス・テイラー主演の映画「バターフィールド8」(1960年)での鏡に口紅で別れの言葉「No Sale(私は売り物じゃない)」を書いて部屋を出ていくシーンから着想を得て「バスルームにルージュの伝言」という名コピーが浮かんだといいます。詩作だけをとってみても阿久にも阿木にも真似できない特異な才能、ユーミンの詩作の特徴としてよく言われるのが、直接的な感情表現ではなく風景や情景描写によって気持ちを伝えるという手法です。 別れの言葉は登場しないにも拘わらず、聴く側は、バスルームの「鏡」にルージュの「赤の」文字で別れの言葉(さよならとか)が書かれている状況までイメージできてしまいます。 お義母さんを「ママ」にしたり、「どんどん」を「Ding-Dong」にして60年代ポップス感をオマージュ的に引き出すセンスも冴えてますね。「列車」と「Ding-Dong」(列車の警笛の音)といえば、日本で大ヒットしたニールセダカの「恋の一番列車(Going Home to Mary Lou)」(1961年)の要素も入ってると思います(冒頭のディンドンディドーンが印象的な曲)、探せば他にもあるかもね。 「バスルーム」という言葉も1975年だと一般的ではないでしょう。バスルームという表現が(使わない言葉だけど)流通したのは80年代以降だと思いますが、 同じ70年代だと洗い髪が芯まで冷えて石鹸がカタカタ鳴ったという、かぐや姫の「神田川」(1973年)の世界との「お風呂」に対するかけはなれた生活感の対比も面白いです。 都会的で洗練されたお洒落な感覚はそれ以前の邦楽には見られないもの、口紅でメッセージを残そうなんて誰も思いつきませんよ。何十年経っても不思議と古くならない、くさくもならない、永遠に普遍の音楽という気がします。 演奏はティン・パン・アレーではなくダディ・オー!というユーミンのライブ活動時のバンドによるもの、 「コバルト・アワー」制作時にはダディーオー!として4〜5曲分の録音が行われたが後にティンパンアレーの演奏に差し替えられたという、ただ「ルージュの伝言」はライブっぽい演奏が曲調に合っていたからでしょうか、そのままダディーオー!の演奏が使われています。さらに山下達郎(21才)らの極上のコーラスが加わって完成、 山下さんによると「「ルージュの伝言」は元々B面の予定だったんです、 でこのB面の「何もきかないで」というハチロクのバラードがA面の予定だったんですが、これ私シュガー・ベイブ名義でコーラスに参加しておりますけれども「ルージュの伝言」で私がコーラスで裏声で気張って入れましたら、こちらがA面になってしまいまして、、」だそうです。 荒井由実の作った音楽はロックでもフォークでも歌謡でもなく、どのジャンルにもカテゴライズすることができずに「ニューミュージック」(新しい音楽)と呼ばれるようになります。誰も立っていない領域で彼女自身も自分が成し遂げた偉業を把握できていなかったのかも知れません(先人がいませんから比較対象がいない)、翌1976年11月には結婚し荒井由実は完全に伝説となりますが、松任谷由実にとって荒井由実とは今でもパラレル世界に存在する別人格の少女なんだとか。それから数年後の1979年を転機にして歌謡界の音楽はニューミュージックの音が主流になっていき歌謡曲という言葉は形骸化していくことになります。



「ルージュの伝言」
あのひとのママに会うために
今ひとり 列車に乗ったの
たそがれせまる街並や車の流れ
横目で追い越して
あのひとはもう気づくころよ
バスルームに ルージュの伝言
浮気な恋をはやく
あきらめないかぎり
家には帰らない
不安な気持を残したまま
街はDing-Dong
遠ざかってゆくわ
明日の朝ママから電話で
しかってもらうわ My Darling

あのひとはあわててるころよ
バスルームに ルージュの伝言
てあたりしだい友達に
たずねるかしら
私の行く先を
不安な気持を残したまま
街はDing-Dong
遠ざかってゆくわ
明日の朝ママから電話で
しかってもらうわ My Darling
しかってもらうわ My Darling

作詞・作曲:荒井由実
編曲:松任谷正隆
ギター:大野久雄
ベース:平野融
ドラム:平野肇
キーボード:吉原真紀子
コーラス:山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、伊集加代子
リリース:1975年2月20日
レーベル:東芝EXPRESS
価格:500円
最高位:45位



※本文中の年齢は1975年1月1日時点の年齢です。
参考サイト:
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(wiki)
大ヒット曲「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の裏話を語ろう
港のヨーコ歌謡の世界
スモーキン・ブギ / ダウンタウンブギウギバンド(1974 年)
カッコマン・ブギ / ダウンタウンブギウギバンド(1975 年)
Shake Your Moneymaker / Elmore James(1961年)
Same Old Story / Taste (1969年)
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 全シングル&アルバム
長くつ下のピッピの唄/ キャロライン洋子(1969年)
キャロライン洋子CM集
1975年(昭和50年)2月21日「年下の男の子」がリリース
アダムス
田中清司
Somethin' 'Bout You Baby I Like / Tom Jones(1974年)
桜田淳子 スター誕生 ! 秋田予選合格〜デビューへ
スター ! 花の中3トリオ誕生伝説
わたしの青い鳥 / 桜田淳子(1973年)
桜田淳子のシングル曲をつなげると一つの物語が完成する
4/14は桜田淳子の誕生日。1958年生で59歳を迎える【大人のMusic Calendar】
1975年2月3日、桜田淳子「はじめての出来事」がオリコンチャートで初の1位を記録
桜田淳子・資料館
歩き出す一人のアイドル、桜田淳子の第二章は「しあわせ芝居」から
アイドルの「成長物語」、原点は伝説の番組「スター誕生!」だった
回転木馬 / 山口百恵 (スター誕生、1972年12月)
回転木馬 / 牧葉ユミ (1972年6月)
15歳にして独自の表現に至ったひと夏の経験
16歳にして一つの到達点にまで至った山口百恵のバラード「冬の色」
伊豆の踊子 / 山口百恵(1974年)
黒い天使 / 山口百恵(1975年、「赤い疑惑」より)
「コンドルは飛んで行く」曲の解説と意味
コンドルは飛んで行く(El Condor Pasa) / Simon & Garfunkel(1970年)
The Exorcist Theme(1973年)
ヒットメーカー 阿久悠物語(2008年)
スーパー中学生だったんですというユーミンが作詞作曲した「恋のスーパーパラシューター」
卒業写真 / 荒井由実(1975年)
生まれた街で、あの日に帰りたい / 荒井由実&ティン・パン・アレー(1975年)
エリザベステイラーが主演した映画の残像からユーミンがイメージした物語
カラーに口紅(Lipstick on Your Collar) / Connie Francis(1959年)
恋の一番列車(Going Back to Mary Lou) / Neil Sedaka(1961年)
神田川/ かぐや姫(1973年)
Learn Japanese with songs | ROUGE NO DENGON
シンガーズ・スリー、伊集加代子さん、70年代の記憶
おおキャロル / Neil Sedaka(1959年)

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