ピンクレディー世代といっても、あまりに色んなことが流行りましたので、とても追いきれるようなものではなく、ピンクレディー旋風の真っ只中、1977年(昭和52年)の「秋」の流行歌を取り上げてみたいと思います、 秋は人恋しく誰かのことに想いをよせる季節、 寒くなっていく気温と人肌のぬくもりほしさは密接な関係があるとか、 この年の秋、ジョー山中は「ママ、ドゥユーリメンバー」と唄い、山口百恵は「もう少しあなたの子供でいさせてください」と唄い、ピンクレディーは「あなたなしでいられない」と唄い、ジュリーは「忘れてしまったよ」と唄った。

●人間の証明
(*)日本が占領されて間もなく、米兵による大量レイプが横行し、10日後には彼らはレイプの発生件数を数えるのをやめてしまった。「日本が降伏した後の神奈川県占領下で、最初の10日間のレイプの報告は1336件もあった」(*wiki)
松田優作「ばかやろう!、てめえはそれでも人間か、てめえいったい日本人何人殺せば気が済むんだよ」
芸能界麻薬汚染事件:
1977年8月11日にはジョニー・ヘイワード役のジョー山中(山中明)が大麻取締法違反で逮捕される。山中は佐世保署の追及で内田裕也(同年9月24日検挙)に2グラムと、美川憲一(同年10月13日検挙)に1グラムのハッシッシを渡したことを自供、以上、佐世保コネクションと呼ばれている。 その後、「芸能界薬物汚染事件」は佐世保ルート以外にも広がりを見せ、井上陽水、研ナオコ、内藤やす子、にしきのあきら(金明植)、桑名正博、上田正樹、検挙された芸能関係者は70人に達した。(*wiki)
当時は、ジョーは内田裕也のバンド(フラワートラベリングバンド)のボーカリストを務めるなど活動歴は長いものの、一般的にはほぼ無名といった存在で、 逮捕されて、 ラジオでのオンエアが自粛されたが、前述の角川商法によるテレビCMで頻繁に「人間の証明のテーマ」が流されており大ヒットになります。 この映画と主題歌が大ヒットして日本中の注目を集めている最中、なんと当人は大麻不法所持で「拘留中」という、一般への認知のされ方も衝撃的でした。第一印象がこれなんだから誰もがジョーはヤバい奴だと思うでしょ。勾留は75日間におよび、おそらく10月中旬頃に出所、たしか出所後にはじめて映画も主題歌も大ヒットしていることを知ったとニュースで語っていたような、、釈放された足で映画館へ行くと、風貌からバレてしまいサイン攻めにあったという、 ただこれで強烈なイメージが定着してしまったんじゃないですかね。当時もその後もジョーはテレビ番組に出演することありませんでした。ジョー山中って生涯テレビ出演はないんじゃないかな。
一連の芸能人の逮捕が大麻の不法所持だったのに比べ、岩城さんだけは覚醒剤と拳銃所持ですから、もっとヤバいと思います(笑)、復帰は松田優作の「探偵物語」(第11話、第21話)や、「北の国から(1981年10月~)」の草太兄ちゃん役からでしょう、よく復帰できたもんだと思います。(「北の国から」で草太兄ちゃんが出てきたとき「あ、シャブとピストルの人」と誰もが思ったとか思わなかったとか)、これは優作や脚本家である倉本聰さんの尽力が大きいでしょうね。優作もかつて暴力事件で謹慎していた事がある(1975年7月~1976年3月頃)、倉本に岩城を紹介したのは安藤組の安藤昇
倉本聰「それで撮影(前略おふくろ様第2シリーズ)が終わったとき、安藤さんに“お時間ありますか”って誘われて、渋谷でお茶を飲んだんです。すると“うちに若い衆がひとりいるんですが、会ってやってくれませんか”って。そしてすぐ駆けつけてきたのが岩城(滉一)だった。物おじしないし面白い。安藤さんが“こいつを『前略』に出してやってくれませんか”って言うんで、急遽、最終回にシーンを書き加えて登場させたんです。そしたらたちまちショーケンと衝突した。 面白いやつだから、レギュラーで出したんです。(「あにき」(77年、TBS系))ところがその後、岩城がとっ捕まっちゃった。容疑は覚せい剤取締法違反と銃刀法違反(拳銃所持)。それで岩城は完全に干されるわけですよ。何年かして、フジテレビで『北の国から』をやる時に岩城を出演させることを条件に引き受けた」(倉本聰「ドラマへの遺言」より)
広島:
私は生まれが広島県(のとある市郊外)で、広島県には学校に平和教育(人権教育ともいう)というものがありまして
内容はというと「原爆、平和、部落差別、人権、身障者」なんですね、8割原爆、ですから原爆の惨状を教えこまれてまして、峠三吉(とうげさんきち、日本共産党員)の恐ろしい原爆の詩を朗読させられ、原爆の歌を合唱させられ、夏になると「人間の証明のテーマ」
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Mama, do you remember the old straw hat you gave to me I lost the hat long ago flew to the foggy canyon yeah Mama,I wonder what happened to that old straw hat Falling down the mountain side Out of my reach like your heart Suddenly the wind came up stealing my hat from me yeah Swirling whirling gusts of wind blowing it higher away Mama,that old straw hat was the only one I really loved But we lost it,no one could bring it back Like the life you gave me Suddenly the wind came up stealing my hat from me yeah Swirling whirling gusts of wind blowing it higher away Mama,that old straw hat was the only one I really loved But we lost it,no one could bring it back Like the life you gave me Like the life you gave me |
母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね? ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりずみ)へゆくみちで 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ 母さん、あれは好きな帽子でしたよ 僕はあのときずいぶんくやしかった だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから 母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね 紺の脚絆に手甲をした そして拾おうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね けれど、とうとう駄目だった なにしろ深い谷で、それに草が 背たけぐらい伸びていたんですもの 母さん、ほんとにあの帽子どうなったでしょう? そのとき傍らに咲いていた車百合の花は もうとうに枯れちゃったでしょうね そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ 母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、 あの谷間に、静かに雪がつもっているでしょう 昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と その裏に僕が書いた Y.S という頭文字を 埋めるように、静かに、寂しく |
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原詩:西條八十「帽子」より 英訳:角川春樹 英詞:ジョー山中 作曲:大野雄二 レーベル:ワーナーパイオニア 定価:600円 発売:1977年8月10日 最高位:2位(6週) 映画「人間の証明」公開:1977年10月8日 |
●秋桜(コスモス)
歳を重ねるごとに和風好きで仕方なくなってきますが、山口百恵(18才)の「秋桜」は和の美学の最高峰の作品だと思います。
私が言うまでもなくこの曲は日本の歌百選に選ばれるほどの名歌であるわけなんですが、完成までに非常に時間がかかったという事でも知られています。というのもレコーディングに時間がかかったわけではなく、最初にさだまさしに曲作りの依頼があって、さだまさしによる山口百恵の分析から始まってますから、、、テーマが「結婚」なのは、この人(山口百恵)は芸能界に長くいる人ではなく引退して伝説になる人なんだろうな、という予感があったといいます。さだは「俺には突っ張っているようには見えない。日本女性の奥深さを感じる」と百恵さんを評した。さらに「この人は芸能界にあまり長くいたくないのだろう。スターになったがために責任感でここにいるけど、早くやめると幸せなんだろうなあ。やめればいいのに」と感じていたという。(日刊スポーツより)
さだによる百恵の批評ですが、まさに本質を言い当てていると思います。作品としての「山口百恵」ではなく人間「山口百恵」の内面を深く見つめて、つまりスター歌手の理想としての結婚~寿引退をテーマに選んだという事です。和の美を構築する上で山口百恵とさだまさしという組み合わせは究極といえますが、二人のたった一つの作品がその後の山口百恵の運命をも決定づける事になります。
制作に非常に時間がかかったという経緯を下表に時系列でまとめてみましたが、 最初にさだまさしに曲作りを依頼したのが1975年ですから、百恵ちゃんが16才の時、さだ自身、グレープ解散などのゴタゴタがあって、さだがソロ作品を発表した後にそれを聞いた百恵ちゃん(17才の時)から再度催促してることから、百恵ちゃんとしてはさだの繊細な詩世界に強く惹かれていたことがわかります。自ら阿木=宇崎に依頼した曲「横須賀ストーリー」(76年6月)の成功で、百恵ちゃん本人による作家指名に自信がついた事もあるでしょう。自分で山口百恵をセルフプロデュースしていくという楽しさに目覚めたのかもしれません。(この辺が普通のアイドルとは違うところ)、 さだもまた百恵ちゃんを分析して非常に繊細で感受性が強い人物と評しているので、繊細で感受性の強い似た者同士 (いわゆるHSP:Highly Sensitive Person)でお互いに超・能力で通じ合うものがあって制作された奇蹟的な楽曲なのだと思います、 さださんは妹、弟、親父など実在するごくごく身近な人物や日常の些細な出来事に非常に多くの事を読み取り、細かく描写できる感性を持っているのでそれに百恵ちゃんが敏感に感応したということなんでしょうね。
制作経緯:
| 時期 | 証言 |
|---|---|
| 1974年~1975年 | 山口百恵「私がさだまさしさんの存在を知ったのは、「精霊流し」、この歌の頃は「グレープ」としてよくテレビ出ていたんですよ。ほっそりとして、なんていうんだろう線の細い印象でね。まわりの歌い手さんたちとちょっとなんか違うな、、という感じは受けてました。グレープの歌で「精霊流し」とか「朝刊」、とってもあったかい感じがしてね好きでした。~でもあたしに歌える世界では決してないっていうイメージでずっと思っていたんですよね。」 |
| 1975年8月(?) |
最初の依頼 さだまさし「そろそろまさしの歌を歌わせたいから1曲作ってくれ、と担当プロデューサー(ソニーの酒井政利?)から依頼があった」 山口百恵「8月ぐらいだったんですよね。さださんもその話は受けてくださって、ただ「いつできるかはわかりませんよ」という話だったんですよね、でやっぱりいい歌をうたいたかったし、時間で制約してしまってさださんの世界が壊れてしまったら歌う価値がなくなってしますから「いいです」ということでずっと待ってたんです。」 |
| 1976年4月 | グレープ解散(さだまさしと吉田正美によるフォークデュオ) |
| 1976年 | さだまさし、一時業界からはなれ就職活動 |
| 1976年11月25日 | さだまさし最初のソロアルバム「帰去来」リリース |
| 1976年11月(?) |
2度目の催促 山口百恵「さだまさしのソロアルバム「帰去来(ききょらい)」を聞いて「あ、歌いたいな」てふっと思ったんです。」それでぜひ歌いたいっていうことでまたお願いした。こんなに繊細でデリケートな世界をあたしなりに、女っていういろいろな様々な感情とかそういうもののなかで。さださんの世界をとらえたらどんな風になるんだろうなって、~それでぜひ歌いたいっていうことでまたお願いしたんです」 |
| 1977年前半 |
曲作り さだまさし「じゃあ作ると決めたら一体どんな曲を作ろうか。それについてやっぱり山口百恵についてじーっとね、言動その他を本で読んだり表情を見ているうちにね。~素直じゃないのね、所謂画面上において山口百恵を演技しているんじゃないかという気がどうしても未だにするわけです。~とっても繊細な娘で感受性豊かで、ただそれを表にあらわしたりなんかすることに照れを感じる類の人で。~すごく感受性が強くてもそれを、自分が感情を表に出すことに照れを感じる種類の人間って必ずある。彼女はそういう人種だろうと、おそらくたぶん自分に似てるんだろうと、決めたわけですね。 それで、じゃあ本音を吐くときには一体どういうときかというと、それは明らかにこれが本音だとわかって恥ずかしくない相手の前でしか本音を吐かないんだろうなと思ったりした。で、かなり芯の強い人だろうから、うっかりしたことでよろめいたりして見せることはしない人だろう。彼女はやがてだれかの元へ嫁ぐ。あっけなく嫁ぐと思ってたんだけれども。~その時の「結婚前夜」を歌ってやろうと思ったわけです。これは作るときにはかなり山口百恵を意識したんですね。僕の想像の中での山口百恵はこう感じるであろう、こう言うであろう。そういうところからの歌ですね。」 山口百恵「待ち続け・・・待ち続け・・・」 おそらく、さださんは百恵ちゃんを分析しているうちに魅力にハマっていったんだろうと想像します。 |
| 1977年6月 |
曲完成 山口百恵「初めは「秋桜」ではなく「小春日和」というタイトルで出来てきたんです。初めてこの歌を聞いた時、あたしはどちらかというと~「母」という人の存在に対してとても大きなものを感じているタイプの人間なんで~ものすごく感動しちゃってですね。~この歌はもう自分の中のひとつの「私小説」感覚でね。自分のドキュメントっていう感覚で歌いたいなって思った歌なんですけどね」 「秋桜」が百恵さん(18才)のもとに届けられた直後、さだまさし(25才)は電話で話した。「百恵ちゃんにはピンとこない曲でしょ」と言うと、「はい。実感が湧かないんです。だから上手に歌えないんです。すいません」。素直な返事だったと感じた。そこで「好きなように変えて歌ってくれていいんだよ」と伝えた後、「なぜ、私があなたにこの歌を作ったのか、その理由が分かる日が早く来ればいいね」と付け加えた。 |
| 1977年6月~8月 | 「秋桜」レコーディング、 「小春日和」というタイトルだったが、曲を聴いたCBSソニーの酒井政利プロデューサーの提案で「秋桜」に変更となった。 |
| 1977年10月1日 | 「秋桜」リリース、オリコンチャート最高位3位の大ヒット(5週連続)、50万枚近いセールスを記録 |
| 1979年10月20日 | 三浦との恋人宣言を突如発表 |
| 1980年10月5日 |
山口百恵引退 結婚を期に引退する日本武道館でのラスト・コンサート、「"ありがとう"という言葉をどれだけ重ねても、私の気持ちには追い付けないと思います。私のわがまま、許してくれてありがとう、幸せになります」そう言ってステージにそっとマイクを置いてファンに別れを告げたパフォーマンスの直後、電話で次のメッセージをさだに送っている。 「さださんがこの歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。本当に、本当にありがとうございました。山口百恵」 同日、大阪市内のホールでコンサートを終えたさだまさしが定宿のホテルに戻ると、フロントマンからメッセージを渡された。そこには「本当に、本当に」と「本当に」が2度繰り返されていた。これを読んださだは「もう2度と彼女が(芸能界に)帰ってくることはないな」と感じたという。 |
| 1980年11月18日 | 「秋桜」で歌われる小春日和の日、結婚前夜の娘と母 |
| 1980年11月19日 | 山口百恵、三浦友和と結婚 |
| 1993年 |
さだまさしのデビュー20周年によせて 「秋桜を歌えたということ、そして何よりさださんの世界に触れられたということは、とても大切な私のたからものです。三浦百恵」 |
言霊の歌:
縁側での母と娘の幻影はさだが山口百恵を通して視た白日夢、夢を文字で書き起こしたものが歌詞となり、山口が歌う事によって3年後に現実のものとなるという、「この人は芸能界にあまり長くいたくないのだろう。スターになったがために責任感でここにいるけど、早くやめると幸せなんだろうなあ。やめればいいのに」というさだの思いに端を発して書かれた「山口百恵が嫁ぐ日の歌」は来たるべき未来予知(プレコグニション、英:Precognition)を書き留めたものであり「歌うことそのままが即ち実現する」言霊の歌、 昔から日本では言葉には呪力があると考えられてきた。言霊ともいわれ、言葉に宿る霊力が、発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられてきた。
百恵ちゃん自身にも予知能力がある事は著書「蒼い時」でも触れられている。 「私の場合、それが現実に的中したということが少なくない。横須賀に住んでいた頃、母に頼まれ使いに出た帰り道、何気なくドブ川のふちによって歩いていた。右側のサンダルをひっかけたわけでもないのに、はずみで川の中に落とした。泣きそうな私を見て、通りすがりの中年男性が、川の中にはいってサンダルを拾ってくれた、ただそれだけの出来事を、事が起こる数分前に私の頭は画像としてとらえていた。・・・ しだいに、その小さな予知能力は自分の人生においても決定権をもつほどになってきていた。私は人生の一大事を決定するときも、この直感というものを信じた。(山口百恵著「蒼い時」より)」、つまり一切の仕事を辞めて、結婚することを選んだのも百恵さんが自身を信じる事に依るもの。百恵ちゃんはそうやって誰にもたよらず自分自身で物事を捉え生きてきた。中学2年でスター誕生に応募した際も「あ、私は歌手になるんだ」という強い予感(確信)があったといいます。
さだの言う「なぜ、私があなたにこの歌を作ったのか、その理由が分かる日が早く来ればいいね」とは 歌詞の内容が現実のものとなった時に作った理由がわかるのだから その理由がわかる日がくるといいね(やがて嫁いでいく日があなたに訪れて幸せに) という意、その3年後の返答である百恵ちゃんの「この歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。」とは、私が望む未来(秋桜の歌詞)が本当に訪れその通りになる日が来ました。ということです。 さださんは人の気持ちをよくよく見ていて、根はあったかさと強さを持った人ですね。歌詞によく表れています。
第19回日本レコード大賞で、山口百恵は歌唱賞を、さだまさしは「秋桜」と「雨宿り」で西条八十賞(後の作詩賞)を受賞した。
「秋桜」
(映像は「夜のヒットスタジオ」より、 1977.11.14)
淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない 陽溜まりに揺れている
この頃 涙脆くなった母が
庭先でひとつ咳をする
縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話 くりかえす
独り言みたいに 小さな声で
こんな小春日和の 穏やかな日は
あなたの優しさが 浸みて来る
明日嫁ぐ私に 苦労はしても
笑い話に時が変えるよ 心配いらないと笑った
あれこれと思い出をたどったら
いつの日も ひとりではなかったと
今更ながら我儘(わがまま)な私に
唇かんでいます
明日への荷造りに手を借りて
しばらくは楽し気にいたけれど
突然涙こぼし 元気でと
何度も何度もくりかえす母
ありがとうの言葉を かみしめながら
生きてみます私なりに
こんな小春日和の 穏やかな日は
もう少しあなたの 子供でいさせてください
作詞・作曲:さだまさし
編曲:萩田光雄
レーベル:CBS Sony
定価:600円
発売:1977年10月1日
最高位:3位(5週)
山口百恵論:
子供の頃の私(10才)には正直その魅力はよくわかりませんでした、もちろんいつもテレビに出ていて身近で圧倒的な存在感を示し、国民的アイドルではあったんですが周囲にまる子のような百恵ちゃんの熱烈なファンだという子もいなかったな、当時の私から見ても落ち着いていて大人しい、時に迫力があり過ぎて近寄り難い、という印象は普通の子供からすれば誰もが感じていたんじゃないかな、私的に「ひと夏の経験」で神秘的で鮮烈な印象を受けたのは確かなんですが、それに続くヒット曲の仰々しいサウンドや、決定的だったのが重苦しいテーマの大映ドラマ「赤いシリーズ」が全然受け付けなかったというのがあります(主婦層には人気で高視聴率だったみたいだけど)、大人な男女間のやりとりも子供にはピンと来ないし、「横須賀ストーリー」の頃になるともうピンクレディーが登場してくるし、 よく比較されますが、70年代だと桜田淳子さんのほうがアイドルとしては正統派、子供受けもいい、(似たようなことはピンクレディーでもミー派とケイ派で比率が7:3くらいだったことにも言えるんだけど、)、 なので百恵ちゃん(18才)の熱烈なファン層となると、どの辺りになるのかなかなか掴み難いのですが、1つに当時の大人達の評価が一様に高かったというのがあります。まぁガキにはわからないということです、そういう意味じゃピンクレディー(子供)、キャンディーズ(学生)、山口百恵(大人)と市場は綺麗に分かれていたということになります、これに八代亜紀(中高年)を加えてもいい、この4者のメインターゲットとなる市場区分があってキャンディーズが子供を、百恵ちゃんが中高年層を取り込もうとしていた、という感じ、だからといってピンクやキャンの音楽が子供向けかといえば、そういう事ではなく音楽への向き合い方が世代間で違うということなんだろうけど、、 もともと音楽をレコードで楽しむという娯楽は1960年代ころだと大人向けの娯楽で 、1970年代は市場を中学生高校生や子供層までへと拡大化していった時期でもありますが、百恵ちゃんはあくまで大人の鑑賞にたえ得る歌謡の保守本流(本物)を追求していたということかな、 百恵ちゃんは当時の文化人たちがこぞって取り上げ、何かにつけ評論の対象にしていたのをよく覚えています。 それも昭和の一流のプロのオジサンたち、 写真家・篠山紀信(36才)、脚本家・倉本聰(42才)、映画監督・大林亘彦(39才)、作曲家・都倉俊一(29才)、作詞家・阿久悠(40才)、、、等々が、 まるで一級品の芸術を鑑賞するかの如く山口百恵という少女を称賛していました。天才と言われたこれらの方々に 其々の立場で山口百恵評論というものが必ず存在するので興味があれば読んでみるのもよいでしょう。 「火垂るの墓」の作家・野坂昭如(46才)(のさか あきゆき)もそんな百恵信者の一人です。
野坂昭如「戦後、なかなかスターってのは出にくかったんだけど、ようやく出てきたって感じがあるわけで、まぁ、かこつけるようだけど、高度経済成長の時には確かに使い捨てみたいなスターがたくさん出てきて、その成長に陰りが出てもっと違う価値を求め始めたときに山口百恵が出てきたっていうふうな、あの方は日本の伝統的なスターの要素を備えている、つまり 、ちょっと翳りがあって、スターには共通する非常にふてぶてしいとこがある、今の女性の中にたいていその 流行とか時代の風潮のなかに埋没してしまってる個性というものがある、個性はけして誰かが企んで作ったんじゃなくて おのずと自分自身の個性が出ざるをえないという、そういう面をあの人は持っていると思うんですね。 スターっていうのは、これは日本だけに通用するっていうもんじゃなくて、これはあの、もう 山口さんていうのは世界的に通用する。っていうか、 例えば顔立ちだけみて美人であるとか美人じゃないとかそういうことじゃなくて、 あの人が持ってる雰囲気というのは 仮にシャネル・・・・歩いてても、(シャネル本店はパリのカンボン通り) ローマのベニス通りを歩いてても(ローマにあるのはヴェネツィア広場) あるいは五番街(マンハッタン)歩いていても、たぶん外人が振り向いて、なんかこう気にするような、 そういうムードというかアトモスフィア(雰囲気)というか、そういうものを持ってる人だと思うし、 僕自身、自分自身がやがて先になって今の時代を振り返る時に、 山口百恵というスターの存在と、かこつけて、振り返るだろう。 スターとかヒットメロディというのは、 タイムマシンみたいな役割を将来に向けて行うことがあって 山口百恵のある種の歌とか、彼女の個性とか、そういうものとひきかえて、 たとえば1970年代の後半から80年代にかけて僕らは懐かしく思い出すんじゃないだろうかと、 たぶんその時に、 今よりもっと時代は悪くなっているだろうから、大変こう、あの頃は良かったという形でもって思い出すことになる、と僕は予測しますけどね。最後の黄金時代を飾る人みたいな気がするわけ。」(「山口百恵 激写/篠山紀信(1979年)」より)
●ウォンテッド(指名手配)
多羅尾伴内(たらおばんない)とは:
阿久悠いわく、わかる人にはわかるというラップ調の「ある時~」の箇所は多羅尾伴内が劇中で語る台詞の有名なパロディ、
多羅尾伴内とは
(*)敗戦直後の1946年(昭和21年)に劇場公開された「七つの顔」に登場する私立探偵、当時は日本を占領中のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀を振り回すチャンバラ劇は禁じられていたため、刀をピストルに持ち替えた頼もしいおじさんヒーロー、片岡千恵蔵主演で1946年から1960年の間、大映・東映で合わせて11作公開された、1977年当時でも30代以上の大人の幼少時の懐かしの映画のヒーロー、
片岡千恵蔵演じる多羅尾伴内(和製アルセーヌ・ルパン)が七変化をするミステリ活劇で大ヒットしてシリーズ化され1946年から1960年の間、大映・東映で合わせて11作が制作、公開された。(*wiki)多羅尾伴内は 大見得の元祖でキューティーハニー(1972年)などでも流用されています。「七つの顔」での口上→「ある時は多羅尾伴内、ある時は奇術師、ある時は老巡査、ある時は新聞記者、またある時は手相見、片目の運転手、しかして実体は、藤村大造だ」 ちなみにキューティーハニー1作目→「ある時は花形レーサー、またある時はスチュワーデス、そしてモデル、歌い手、カメラマン、だが実体は、愛の戦士キューティーハニーさ」 片岡千恵蔵版の多羅尾伴内は11作品作られて7変化の内容も作品ごとに異なっている。
ウォンテッドのあいつと多羅尾伴内シリーズの変装人物の対比:
| No. | ウォンテッドのあいつ | 多羅尾伴内の変装 |
|---|---|---|
| 1 | 謎の運転手 | 片目の運転手+謎の東洋人 | 2 | アラブの大富豪 | 異国の大富豪、アラブは阿久悠の趣味 | 3 | ニヒルな渡り鳥 | 該当なし、「ギターを持った渡り鳥」(1959)の小林旭 | 4 | キザな若社長 | キザな紳士、若社長とはT&Cの相馬一比古(そうま かずひこ)でしょうか? | 5 | 真面目な医学生 | 該当なし、多羅尾伴内の変装に学生は出てこない、ピンクのファン層向け? | 6 | 洒落た音楽家 | 該当なし、真っ赤なフェアレディZに長身を折りたたむように乗り込み、鮮烈な印象を持った(阿久悠談)という都倉俊一のことでしょう |
翌1978年にはピンクレディーのウォンテッドに触発された形で小林旭版の多羅尾伴内(東映、1978年4月)が公開され、この作品では「流しの歌い手」が登場し、主演が小林旭なので自らセルフパロディのような「ニヒルな渡り鳥」スタイルを披露、小林旭版は八代亜紀やアンルイス、さらにピンクレディーみたいな二人組のアイドル(キャッツ★アイ)も登場し歌謡マニアには堪えられない内容となっています。 キャッツ★アイは1977年に「アバンチュール」でデビューしたピンクレディーのフォロワー的アイドルで、ピンクのセクシー路線に特化したようなアイドル、ピンクのフォロワーは他にもたくさんいたようです。アパッチ、GAL、、
おもちゃ箱をひっくり返したような世界:
話を戻して「ウォンテッド」はサウンド面も相当凝っていて、やはり「港のヨーコ」をヘビィにしてビートを効かせたベース&ギターによる反復リフからギターのダウングリスによる銃声音のような効果音がかっこいい「くちづけ責めにあわせる」のピストルキス(バッキューン)、
そしてラップ調のコミカルなパートでの
ケイちゃんの物凄いしゃがれ声が可笑しい「ある時アラブの大富豪」(これも都倉先生の指示によるものだとか)ちなみにこのラップのパートは、都倉さんによるとニューヨー
クの路上で見たヒップホップを意識したといいます。ここは「港のヨーコ」だと「アンタあの娘の何なのさ!」に相当する箇所で「何なのさ?」の返答が「ある時アラブの大富豪!」になっているから「港のヨーコ」の歌詞と対比してみると面白いです。
「好きよ~」からはテンポが倍速になり甘いフィリーソウルなディスコビート、チョッパーベースとコンガとストリングで盛り上げてからのキメ台詞「アイ・ウォンチュー・ベイビー!」、
楽しい仕掛が満載で、ロックあり、ラップあり、ディスコありで、曲調が目まぐるしく展開しそれに伴ってダンスも複雑に変化する、
近田春夫が言うには「押して、押して、押しまくる、大袈裟なくらいのインパクトを持たせ、
これが楽曲に高揚感を与え、アッパーなイケイケムードを生み出すのだ」、
さながら3分間のロックミュージカル、ピンクレディーの可愛くてセクシーな魅力が詰まったまさに「おもちゃ箱をひっくり返したような」というピンクのコンセプト通りの様々な要素を持った楽しい楽曲です。
発売翌週(9/12)にはオリコンチャートに初登場して12位にランクイン、9/19から渚のシンドバッドに取って代わって首位奪取して12月5日まで12週(ほぼ3か月首位)連続オリコンチャート1位という特大ヒット、「ウォンテッド」は単なるアイドルのヒット曲にとどまらず
イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)も翌1978年にライブでカバー、さらに東京歌謡と称してこの曲を分解して再構築、
「ウォンテッド!」を「トキオ!」に換えて「テクノポリス」(作詞・作曲:坂本龍一)作ることになります。
YMOによるカバーや再構築、
これは子供だけではなくYMOクラス(細野晴臣(30才)、高橋幸宏(25才)、坂本龍一(25才))の大人たちもピンクレディーに熱中していたという証であり、坂本龍一は「単に売れる曲を書いてやろうと思って」なんて言い方してるようですが、
気恥ずかしいのはわかりますが、カバーして解析までして再構築してシングルにして発売してヒットさせてるんでしょ、それを影響を受けてると言うんですよ。
マーティン・デニーやジョルジオ・モロダー、クラフトワークらと並びピンクレディーはYMOに直接的影響を与えてるわけなんです。
それほどウォンテッドはサウンド的に面白い。まぁピンク・プロジェクトも一流の大人たちによる遊びですからね。
YMOは他にもピンク→イエローなど影響受けてる思わしき箇所が散見されます。
YMOの結成は1978年の初頭ですから、細野の頭には
ピンクレディーがヒントになった、あるいは触発された面が多いにあったと思います。やり方は違いますが、
ディスコミュージックで世界に打って出るという構想は一致してますからね。ピンクの「UFO」がYMO構想の直接的要因だと私はにらんでいます。細野さんは言わないでしょうが、子供たちが娯楽を欲してることは理解したでしょうし、そこに爆発的な需要がある事も知れた、30才のオジサンが急にやる気を出した動機の説明もつきますし、
この時期、ピンクをとりまく熱狂のあまりの凄まじさに「オ・・・オレだって売れたい」そういう思いはあったと思いますよ、才能ありながら埋もれていた人たちの間ではね、そんな細野さんの欲求のあらわれがイエローだったり、
ピンクが開拓した市場を受け継いだのがイエローですからね。いうなればピストルズを見てバンド結成を思い立ったクラッシュみたいなものなんです。
矢沢永吉が「ゴールド・ラッシュ」を発表し♪魂のシャベルで金を掘り起こせ ひと山あてたらお前もスーパースター(鎖を引きちぎれ)と歌ったのも同時期、1978年6月、
テレビ大好き人間・大瀧詠一(29才)さんにいたっては多羅尾伴内名義で
ピンク・レディーの応援歌(「Lets Ondo Again」、1978年)を作ってたくらいなんですよ。この時期の大瀧さんは全然売れてなかった、ちなみに大瀧さんの「オレだって売れたい」欲求が実ったのが「ロング・バケーション」(1981年3月リリース)、
イエローに限らず70年代後半から才能のあるアーティストが続々登場してきますが、ピンクがレコード業界ひいては音楽業界における起爆剤の役割を果たしていることは言えると思います。そういう意味で英国におけるセックスピストルズが果たした役割と似ていますね。
デビューから「渚」や「ウォンテッド」や「UFO」や「サウスポー」といったあたりのピンクレディープロジェクトによる楽曲は歌謡のみならずニューミュージックも含め、世界レベルでも革新的で最先端の音楽だったと思います。
当時はまだ欧米に対するコンプレックスがありましたから(さすがに今はないと思いたいけど)、全米デビュー構想というのは非常に意義のある挑戦で、
そこまで視野に入れたアーティストはピンクレディーが初でしょう。そして現時点で全米で坂本九の「SUKIYAKI」(1963年)に次いで、最も成功してる日本人アーティストもピンクレディーです。(ここでも全米ツアー中に解散したセックスピストルズを彷彿とさせます)こういうところもかっこいいの、
ピンクレディーの勢いは
世界の頂点に駆け上がっていく当時の日本経済の勢いそのもの、
気付けば目視でアメリカの背中を捉え、この国のエネルギーが地鳴りをたてて加速していく、そんな時代の空気に同調している気がします。
ミーちゃんとケイちゃんがピンクの旗を振って時代を先導していく、そんなふうに映っていましたね。
「ウォンテッド」
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私の胸の鍵を こわして逃げて行った あいつは何処にいるのか 盗んだ心返せ Wanted Wanted あんちくしょうに逢ったら 今度はただで置かない 私の腕にかかえて くちづけ責めにあわせる 恋泥棒の手配を くぐって生きて行けない つかまる前にこっそり 自首して来たらどうなの ある時謎の運転手 ある時アラブの大富豪 ある時ニヒルな渡り鳥 あいつはあいつは大変装 好きよ 好きよ こんなに好きよ もうあなたなしでいられないほどよ 空っぽよ心はうつろよ何もないわ あの日あなたが 盗んだのよ I want you baby, I want you baby Wanted Wanted 両手に鉄の手錠を 足には重い鎖を 私のそばにいつでも つないでおいてあげるわ あんちくしょうの噂を きいたらすぐに教えて 地球の果ての町でも 逮捕に向うつもりよ ある時気障な若社長 ある時真面目な医学生 ある時しゃれた音楽家 あいつはあいつは大変装 |
There's a man who's stolen my heart away I'm gonna get you and make you pay You're on the loose but you won't be for long Gonna get you back to where you belong Wanted! Wanted! Why don't you confess And say that you love me too Surrender to me before I catch up with you 'Cause I'm out to take you,Take you into my arms Hold you and kiss you so we won't ever part I'll get the clues and then I'm gonna pursue Search the world through Until I catch up with you You don't have a chance 'cause you're the most wanted man Wanted for loving me like no other man Please come back, back to me Oh can't you see,You're hurtin' me You know it's not just a game I'm playin' When I say to you, I want you Why did you have to go, And leave me all alone Do you think it's fair, When you know I care I want to be the one, The one you really want I want you baby I want you baby Wanted! Wanted! |
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作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一 ベース:金田一昌吾 ドラム:宗谷春男 キーボード:井上鑑 ギター:津村泰彦 パーカッション:川原直美 ※演奏はピンクレディーのこの時期の主なレコーディングメンバーなので確証はないです。 レーベル:ビクター音楽産業 定価:600円 発売:1977年9月5日 最高位:1位(12週) |
●憎みきれないろくでなし
77年夏の「渚のシンドバッド」と「勝手にしやがれ」のチャートバトルはもう伝説的ですが、「勝手にしやがれ」の次作が「憎みきれないろくでなし」です、いよいよ沢田研二(29才)が本気出してきた時期で、ポリスハット、つけぼくろ、カミソリブレスレット、安全ピン、タバコを吸いながら歌う(歌いながら投げる)など派手な衣装でのステージパフォーマンスもえらいカッコいい作品で
これも速攻でレコ屋に走った記憶があります。奇しくも「ウォンテッド」と同日リリース、ピンクVSジュリーの第2ラウンド!、、ヒットチャートではピンクの圧勝でしたが「ウォンテッド」と「憎みきれないろくでなし」あなたならどちらを選びます?、、、、、、私はこれでジュリーにやられたのでした。好きだったなコレ、冒頭から異様なテンションでエレキギター(井上堯之、Gibson L-6S)がここまでうるせえド派手な歌謡ってそれまで聞いたことがなかったです、ジュリー版グラマラスロック炸裂なんですがボウイもストーンズもジョニーサンダースも知らないガキには非常に刺激的に映りました。
ジュリーは活動歴も長くこの時点で通算21枚目のソロシングルなんですが、当時の小学生目線だと、ジュリーに注目したのは「勝手にしやがれ」以降ですね。それまでは全くのノーマーク、布施明などと同系統のやたらと女性に人気のあるイケメンのバラード歌手という程度の認識ぐらいしかなく、ジュリーがなぜジュリーと呼ばれるのかも分かってなかったのですが、
「勝手にしやがれ」そして「憎みきれないろくでなし」とこの頃からジュリーも子供に人気が出ましたね。ドリフで志村けんもジュリーの真似をしてました。
ビジュアル面でも男の色気全開でピンクに敗けてません、沢田さんのステージパフォーマンスって「勝手にしやがれ」以降、格段に派手で恰好良くなってる気がするんですけど、、もともとコンサートでは(*)
1974年の「Julie Rock'nTour」でインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山フリーコンサートでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど化粧はステージでは行っていたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組では控えていた(*wiki)らしい。
コスチュームは沢田自身の発案によるもので阿久悠も驚いたという。ビジュアル系の元祖・デヴィッド・ボウイ(30才)のスタイルやパンクファッションを歌謡界に取り入れたのが沢田研二でしょうね。和製という言い方は好きではないけど、ピンクレディーが日本のセックスピストルズならジュリーは日本のボウイの位置に相当するという見方に異論はないです。
歌詞も男言葉と女言葉が交互に入れ替わるハードボイルド小説のような内容で、艶やかで危うい色気のある美男子だからこそできるスタイル、阿久悠が沢田研二という魅力的な個性を通して作りたかった世界は「退廃とか背徳の美」、歌詞の元ネタは映画「カサブランカ」(1942年公開)でのリック(ハンフリーボガード)とイヴォンヌ(マデリーン・ルボー)の有名なやりとりから、映画では酔ってからんでるのはイヴォンヌ(女)のほうで、リック(男)が冷たくあしらってる様子、カサブランカに限らず阿久悠の作品には古い映画から着想を得たと思われるパロディが多いですが、ビデオが普及する以前の時代、ましてネットなどない1977年当時はいつでも観たい映画を観れる手段があるわけではありません。30年以上も前の映画の台詞を覚えているかと言えば誰にでもできる事ではないですね。面白いものを生み出す人って記憶力が抜群なんです。
女:昨夜はどこに?
Where were you last night?
男:そんな昔のことは覚えてない
That's so long ago. I don't remember.
女:今夜会える?
Will I see you tonight?
男:そんな先のことは分らない
I never make plans that for ahead.
阿久悠とジュリーを結びつけたのはTBSのディレクター久世光彦(くぜてるひこ)によるドラマ「悪魔のようなあいつ」(1975年放映)です。70年代初頭、ジュリーの魅力は際立っており、久世も阿久もいつか沢田研二と組んで仕事をしたいとかねてから思っていて恋心のようなところさえあったという、ジュリーをどう妖しく見せるかについても二人は見解が一致していて思案の末「三億円事件の犯人」という役柄に決定、このドラマの主題歌を制作する際に阿久悠が詞を書き、この作曲をなんと6人もの作曲家に発注したらしい(井上忠夫、井上堯之、加瀬邦彦、荒木一郎、都倉俊一、大野克夫)、ドラマの主題歌制作にこの力の入れようですからお金かけてますよね。(阿久悠「夢を食った男たち」より)
その中から大野克夫の曲が選ばれた、それが「時の過ぎゆくままに」でありジュリー最大のヒットとなります。(91.6万枚)、映画「カサブランカ」でリックと昔の恋人イルザ(イングリッドバーグマン)が再会するシーンで流れる音楽が「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」で邦題が「時の過ぎゆくままに」、阿久はこのタイトルを頂いて、ジュリー本人から感じとった退廃的ムード、危険な不良性を加味して作詞、大野克夫が曲をつけジュリーに楽曲提供したということです。阿久悠と大野克夫(exスパイダース、この人も天才ですね、ジュリーとはGS時代からの盟友)はゴールデンコンビと呼ばれ、ジュリーの数多くのヒット曲を手掛けていくことになります。阿久は都倉と組んで「ピンクレディー・プロジェクト」、大野と組んで「チーム・ジュリー」に同時並行で参画しており、この辺が阿久悠の偉大さの所以、長らく第一線で活動していたジュリーですがピークはゴールデンコンビ(阿久悠=大野克夫)が作品を手掛けていた時期(だいたい1977年~79年頃)でしょうから。「憎みきれないろくでなし」とはカサブランカのハンフリー・ボガートではなく、まさに沢田研二のことで、阿久悠が沢田研二から感じ取った魅力、艶やかさ、不良性、を投影・拡大したイメージということ、先の事を考えない享楽的なキャラは「どうにもとまらない / 山本リンダ」の男性版ともいえる。 歌謡の世界でろくでなしといえば、越路吹雪(53才)の「ろくでなし」が想起されます。オリジナルは ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモ / Le Mauvais Garçon、レ・モーベ・ギャルソン、(1964年)で、直訳すると「不良少年」、越路吹雪版は岩谷時子による意訳で男性を女性に変えたもの、当時はろくでなしという言葉がインパクトを与えたらしい、たしかに岩谷先生の言葉選びのセンスは秀逸で、阿久先生もその影響下にあるといえます。阿久によるジュリー版ろくでなしでは、女性を男性に戻して、さらに女性によるつっこみ(ろくでなしでも憎めない)を入れ男女対話形式の構造になっています。 これ以降、曲のコンセプトに沿って煌びやかなコスチュームを合わせていくというジュリーのスタイルは10年近く続く事になります。チャートのトップ10に17週連続でランクインしており、約4ヶ月ものロングヒット、(ジュリー史上売上4位、62.5万枚)、 「秋桜」「人間の証明」に抜かれた後に抜き返す様にも人気の高さが現れていますね。この頃のジュリー、ピンクレディーともなると別次元の勢いがあってほんとテレビ(歌番組)に釘付けで見応えありました。
「憎みきれないろくでなし」
女:昨日はどこにいたの?
男:昨日は昨日でどこかで浮かれて 過ごした筈だが忘れてしまったよ
女:気障な台詞だね
女:明日は会える?
男:明日は明日で楽しいだろうが 余りに遠くて予想も出来ないよ
女:使い古しだね
女:傷つけ合うのが嫌いだからと ずるずるみんなをひきずって 最後にあなたはあなたはどうするどうするつもり 恋に埋もれ死ぬ気でいるの 憎みきれないろくでなし
男:こんなに真面目に愛しているのに 昨日や明日は関係ないだろう
女:きまり文句だね
男:女は不思議だくちづけするより 綺麗な約束ほしがるものなのか
女:破れかぶれだね
女:ひとりも不幸にしたくはないと 天使の気分でいるけれど 最後は疲れて疲れて私の私の胸で 眠るつもりでいるのでしょうね 憎みきれないろくでなし
※確証はないので想像ですが、男女パートを明確にし、冒頭の質問を付与してみました。こうすることで歌詞の情景が見えてきます。
作詞:阿久悠
作曲:大野克夫
編曲:船山基紀
レーベル:ポリドール
定価:600円
発売:1977年9月5日
最高位:3位
俺とお前:
B面の「俺とお前」も名曲なんですよね、当時はシングル盤が600円(LPレコードが2500円)の時代で、1曲が300円としても決して安くはないです。 A面を聞いたら盤面をひっくり返してB面もしっかり聞いてって、そういう聴き方が一般的、 まだラジカセを持っていなかったのでポータブルプレーヤーで繰り返し聴いてました、(確かオートリピート機能というものがあって繰り返し再生できたはず、)、聴くというのは文字通り、座して集中して 聴くんです。 バラ色とはいえない人生だけれど 、なんて歌にしみじみ浸ってた小五の秋、これ今聴いてもいいね。 阿久悠作品によく見られるんですが、 このシングル盤はトータルコンセプト作品になっていて(A面とB面併せて1つの作品)、 A面での男と女のセリフのつづきがB面で展開されます。 女に「ろくでなし」と言われた男が「いい人だと言ってくれ」と 女のもとによりを戻していくストーリーが見えてきます。「最後にあなたはどうするつもり?」への回答(プロポーズ)ですねこれは、、、
「俺とお前」
~続き
男:バラ色とは言えない 人生だけれど
お前とならどうにか 生きていけそうだ
陽はきらめき失い さびれた季節に
こっちへ来い からだが寒くてならない
男:軽い酒だから お前も飲め
二人だけの宴だよ
悪い夢ばかり見ていたけれど
今夜からは見ないだろう
今夜からは見ないだろう
男:若い時の季節はいつでも春だと
誰もがみな言うけど 春などなかった
それでもなお枯れずに 綺麗に咲いてた
お前をもう不幸にさせたりしないよ
男:やっとこの台詞言えそうだよ
暗い春の終り頃
涙流すなよ 嘘になるよ
何もかもが流れるよ
何もかもが流れるよ
男:何もないけれどやさしいから
いいひとだと言ってくれ
俺とお前ならうまく行くよ
洒落た仲ではないけれど
洒落た仲ではないけれど
作詞:阿久悠
作曲:大野克夫
編曲:船山基紀
●1977年秋のオリコンヒットチャート
1970年代後半のこの時期はピンクレディー、ジュリー、山口百恵、の3強の時代、この三者が出すシングルは常に注目を集めていて、人気がありました。三強に加えて、解散宣言で人気に拍車がかかったキャンディーズ、中島みゆき、さだまさしなどのシンガーソングライター勢が参戦、それに映画やCMのタイアップによるヒット曲等も加わっていくといった展開、 人間の証明は6週連続2位、秋桜は5種週連続3位 1977年12月5日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに16曲チャートインした。
愛のメモリー:
作詞:たかたかし
作曲・編曲:馬飼野康二
レーベル:ビクターレコード
発売:1977年8月10日
最高位:2位
コスモス街道:
作詞:竜真知子
作曲・編曲:都倉俊一
レーベル:ワーナー・パイオニア
発売:1977年8月25日
最高位:5位
アン・ドゥ・トロワ:
「アン・ドゥ・トロワ」
あなたの胸に 耳を当てれば
それは真夜中の 時計の響き
こきざみに ときめく心
時のたつのも 忘れなさいと
寒い国から 駈けてきた
恋という名の ピエロが踊る
アン・ドゥ・卜ロワ 踊りましょうか
アン・ドゥ・卜ロワ 炎のように
人は誰でも一度だけ すべてを燃やす夜が来る
アン・ドゥ・トロワ 今がその時ためらわないで
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時ためらわないで
やさしい言葉 聞いた気がする
それが淋しさの 季節の終わり
今日からは あなたと二人
だれも知らない 出発(たびだち)だから
夢の中から 駈けてきた
愛という名の お酒に酔って
アン・ドゥ・卜ロワ 踊りましょうか
アン・ドゥ・卜ロワ 流れるように
人は誰でも一度だけ すべてを燃やす夜が来る
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時もう戻れない
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時もう戻れない
もう戻れない
作詞:喜多條忠
作曲:吉田拓郎
編曲:馬飼野康二
レーベル:CBS Sony
発売:1977年9月21日
最高位:7位
思秋期:
足音もなく行き過ぎた、季節をひとり見送って、はらはら涙あふれる私十八、、、冒頭の七五調の三行詩から一気に聞く者の胸を打つ「思秋期」も「ウォンテッド」や「憎みきれないろくでなし」と同日の9月5日リリースです。
この3曲が同日リリースというのだから尋常じゃない阿久悠の無双ぶり、
思春期の春を秋に変えて思秋期、阿久悠による造語だと思いますが、
阿久悠曰く、(*)これは「聴く歌」、カラオケで歌う歌でもクラブで踊る歌でもない聴く歌、かつてはこのように静かに聴き、自身の思いと重ねてみるという歌もよく売れたのである、
レコーディングの際、高校を卒業したばかり(レコーディングは夏頃)の岩崎宏美(18才)が歌の上手い彼女にしては考えられないミスを繰り返し泣いて歌えなくなってしまった、何度やっても気持ちが異常に昂ぶり彼女は嗚咽するのである、
結局その日のレコーディングは中止になったという、後になって岩崎は阿久に「おじさんの年齢の人が、なぜ私の生活や心情が分かるのか不思議でならなかった」と話したが、泣くほどの激しい思い出については語らなかった(*阿久悠「愛すべき名歌たち」より)とあります、その場に居合わせた飯田ディレクター、作曲家の三木たかしも岩崎につられて泣いていたという、
飯田ディレクターの証言によれば「われわれも泣いていましたが、阿久さんも泣いていた」らしい。「思秋期」
足音もなく 行き過ぎた
季節をひとり 見送って
はらはら涙 あふれる私 十八
無口だけれど あたたかい
心を持った あのひとの
別れの言葉 抱きしめやがて 十九に
心ゆれる 秋になって 涙もろい私
青春は こわれもの 愛しても傷つき
青春は 忘れもの 過ぎてから気がつく
ふとしたことで はじめての
くちづけをした あのひとは
ごめんといった それっきり 声もかけない
卒業式の 前の日に
心を告げに 来たひとは
私の悩む 顔見て 肩をすぼめた
誰も彼も 通り過ぎて 二度とここへ来ない
青春はこわれもの 愛しても傷つき
青春は忘れもの 過ぎてから気がつく
ひとりで紅茶 のみながら
絵葉書なんか 書いている
お元気ですか みなさん
いつか逢いましょう
無邪気な春の 語らいや
はなやぐ夏の いたずらや
笑いころげた あれこれ思う 秋の日
作詞:阿久悠
作曲・編曲:三木たかし
レーベル:ビクター音楽産業
発売:1977年9月5日
最高位:6位
秋の気配:
この頃のオフコースはブレイク前の時期ですね。
ピンク一色の世相の中、後にビッグアーティストとなるニューミュージック系の面々も水面下で活動していたわけで、
私感ですがピンク台風が去った1979年、ポッカリと空いた子供たちの音楽需要を満たしてくれたグループの一つ、こんなに素敵な音楽をやっているのにブレイクしたのは1979年の「さよなら」から、アリス、YMO(細野晴臣)、RCサクセション、浜田省吾、大瀧詠一なども似たような境遇といえますが、1960年代後半から活動しているアーティストなんですよね。
経済的にも豊かになってきた日本、大型のピンク台風が去って、気づけば
素敵な国産の音楽で溢れかえっていたという、嬉しい状況が80年代を目前にして起きます。歌謡の黄金期の洗礼を受け音楽に成熟した巨大なマーケットができていたということです。逆にいえばピンクレディー現象は音楽業界で燻っていたGSの残党にも光を当てたとも言えます。
シティポップスもこの頃、当時はこれらは総じてニューミュージックというジャンルで括られてました。
「秋の気配」はファンには断トツに人気が高く、
ユーミン(23才)の「海を見ていた午後」とともに横浜のご当地ソングとして80'sの少年少女には有名な曲、
80年代はデートスポットとして「横浜」が爆発的ブームになりますがこんな曲が下地を作ったといえます。
、ヒットはしませんでしたがウォンテッドやわかれうたと同じ男女シチュエーションにおける男性視点の歌なので取り上げてみました、
港町・横浜という歌謡の舞台で小田和正(30才)の歌も歌謡の本流を踏襲しているわけです。物悲しくも美しいメロディとともに
港の見える丘公園のベンチに腰掛けて、どうやってわかれようか思い巡らしている男の歌、わかれを具体的に言葉にして切り出したものが後の「もう、終わりだね、、」で始まる「さよなら」でしょうか、男心と秋の空。一月後に「ウォンテッド」が出たときこの歌の返歌だと思った人もいたとかいないとか「秋の気配」
あれがあなたの好きな場所
港が見下ろせるこだかい公園
あなたの声が小さくなる
ぼくは黙って 外を見てる
眼を閉じて 息を止めて
さかのぼる ほんのひととき
こんなことは今までなかった
ぼくがあなたから離れてゆく
ぼくがあなたから離れてゆく
たそがれは風を止めて
ちぎれた雲はまたひとつになる
「あのうただけは ほかの誰にも
歌わないでね ただそれだけ」
大いなる河のように
時は流れ 戻るすべもない
こんなことは今までなかった
別れの言葉をさがしてる
別れの言葉をさがしてる
ああ嘘でもいいから
微笑むふりをして
ぼくの精一杯の優しさを
あなたは受けとめる筈もない
こんなことは今までなかった
ぼくがあなたから離れてゆく
作詞・作曲:小田和正
レーベル:EXPRESS
発売:1977年8月5日
宇宙戦艦ヤマト:
そういえばこの頃「宇宙戦艦ヤマト」の劇場版が公開されて凄いブームになったんですよ。これもともとは1974年(1974年10月6日~1975年3月30日)にテレビ放映されたダイジェスト版で(映画用にまとめたもの)、1974年当時も私の周囲(小学校2年生)ではみな熱中してましたから少なくともちびっ子の間では流行っていたはず、何しろプロデューサー・西崎義展(にしざき よしのぶ、42才)による熱量が凄まじく、地球から14万8000光年離れたイスカンダルまで「放射能除去装置」 コスモクリーナーDを受け取りに行かなければならない。という地球滅亡をテーマにしたもので
本格的SFアニメ作品でしたから、1977年にそれを劇場公開するということで大ブームに、
それまでのアニメーション(いわゆる子供向けアニメ)って小学生低学年以下が対象という認識が一般的だったんだけど、「宇宙戦艦ヤマト」から中高生や大人が見ても楽しめるものも作られるようになって、今日に到るまでのアニメブームの火付け役となったのが宇宙戦艦ヤマトなのでした。(1978年の銀河鉄道999、1979年の機動戦士ガンダムにつながっていく)ちなみにささきいさおが歌うアニメ史上最も有名な(ルパン三世のテーマと同じくらい)テーマ曲「宇宙戦艦ヤマト」は発売から3年近く経った1977年9月12日付で最高位14位を記録している。LP盤のサウンドトラック「宇宙戦艦ヤマト」のほうは1977年8月29日から6週連続でLPチャート首位を独走しており、シングルチャート首位のピンクレディーと連動しています。宇宙戦艦ヤマトとピンクレディーで首位制覇とまぁこの時代の日本経済の勢いを象徴したような事象です。
「宇宙戦艦ヤマト」
さらば地球よ 旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト
宇宙の彼方 イスカンダルへ
運命背負い 今とび立つ
必ずここへ 帰って来ると
手をふる人に 笑顔で答え
銀河をはなれ イスカンダルへ
はるばるのぞむ 宇宙戦艦ヤマト
さらば地球よ 愛する人よ 宇宙戦艦ヤマト
地球を救う 使命を帯びて
戦う男 燃えるロマン
誰かがこれを やらねばならぬ
期待の人が 俺たちならば
銀河をはなれ イスカンダルへ
はるばるのぞむ 宇宙戦艦ヤマト
作詞:阿久悠
作曲・編曲:宮川泰
歌:ささきいさお
レーベル:日本コロムビア
発売:1974年11月10日
最高位:14位(1977年9月12日付で)
映画「宇宙戦艦ヤマト(劇場版)」公開:1977年8月6日
ルパン三世:
ルパンアニメ史上最も有名な赤いジャケットのルパン三世PART2(TV第2シリーズ)の放映が開始されたのもこの時期(1977年10月3日~1980年10月6日)で、ルパン第2シリーズはピンクが解散宣言をしてから翌月に終了してますからほとんどピンクレディーの活動期間(1976年8月25日~1981年3月31日)とともにテレビ放映されてました。
ルパンの第2シリーズの企画は1976年6月にはあったそうなので
偶然とはいえウォンテッドが大ヒットしてる最中にウォンテッドの「あいつ」を具現化したような「ルパン三世」が登場するのだからやはり不思議な時代のシンクロ性を感じてしまいます。
第2シリーズは特にスラップスティック色が強く、
胡椒をまき散らすペッパー警部(第47話「女王陛下のズッコケ警部」)、行動する毎にカメレオンアーミーが流れるカメレオン人間(第74話「恐怖のカメレオン人間」)、などピンクレディーネタも満載、
宮崎駿(36才)が制作に携わっていることでもよく知られるところで(第145話「死の翼アルバトロス」第155話「さらば愛しきルパンよ」)、、後のナウシカやラピュタにつながっていく、
同時期のヤマトとともにアニメブームを担っていくことになります。
第2シリーズ時の劇場映画である、宮崎駿・初監督作品「カリオストロの城」(1979年12月公開)での銭形のセリフ「ヤツはとんでもないものを盗んでいきました~」にもウォンテッドの影響が見受けられます。
ルパン三世もウォンテッドの多羅尾伴内も源流はモーリスルブランの「怪盗アルセーヌルパン」であり、時期的にも阿久悠の世界観がつめこまれた「ウォンテッド」の娯楽性が創作の上でヒントを与えたであろうことは想像に難くありません。ウォンテッドの歌詞をクラリス視点に置き換えて読んでみるのも面白いです。
大野雄二(36才)によるアニメ史上最も有名な(宇宙戦艦ヤマトと同じくらい)「ルパン三世のテーマ」もこの赤ジャケルパンのシリーズから始まりました。一般的に「ルパン三世のテーマ'78」と表記されるので誤解されますが発売は1977年の楽曲です。ビュンビュンというシンセによる電子音がやたらかっこいい80'sの音です。作詞・作曲:大野雄二
レーベル:日本コロムビア
発売:1977年10月25日
最高位:36位
1977年の秋:
1977年の秋はヒット曲が充実してますね。 ピンクレディーが大好きでウォンテッドの記事を書いていたつもりが、気が付くと話がとりとめもなくひろがっていく、なんだかこの時代の歌謡すべてが宝物のように思えてきました。 振り返って、この年、小学5年生の私が歌謡に夢中になっていったのも偶然ではなく野坂昭如も指摘してるように歌謡の黄金期(そしてニューミュージックの台頭期)だったんだろうなと思います。77年の秋は他にも、太田裕美「九月の雨」、郷ひろみ&樹木希林 「お化けのロック」、高田みづえ「ビードロ恋細工」、原田真二「てぃーんず ぶるーす」、紙ふうせん「冬が来る前に」等々、、、いい曲がたくさん、とくに秋の風情を感じさせる秋唄の充実は特筆すべきものがあります。初秋から仲秋、晩秋まで揃っている。(コスモスは仲秋) 歌謡界のあまりの充実と熱狂に押される形で、満を持して1978年1月からランキング形式の歌番組「ザ・ベストテン」がスタートします。音楽番組は全盛を迎え、特にニューミュージックの台頭は、さらに才能を持ったアーティストが続々お茶の間に登場して来ることになります。
(※本文中の年齢は1977年の秋(1977/10/1時点)での年齢)
参考サイト:
「人間の証明」で黒人青年役を演じたジョー山中。映画も主題歌も大ヒットを記録!
カーアクション映画
Movie Walker「人間の証明」
終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた
角川映画 CM集
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米軍占領下での日本女性大量レイプ
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時代の正体〈164〉「GI」ベビーの実像
岩城滉一は昔覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕されていた
追悼・内田裕也
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守ってあげたい / 松任谷由実(1981年)
「山口百恵スペシャル」さだまさし談話
山口百恵・ラジオ「夢のあとさき」一覧
NHK特集「山口百恵 激写/篠山紀信」(1979年放映)
山口百恵、自らの歌を語る(1980年)
山口百恵・三浦友和披露宴出席者インタビュー(1980年)
多羅尾伴内(wiki)
多羅尾伴内楽團と三人の多羅尾伴内
阿久悠の履歴書5--上村一夫とビートルズとの出逢い
ピンク・レディー - ウォンテッド [英語バージョン]
ウォンテッド (ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978)/ Yellow Magic Orchestra(1978年)
テクノポリス / Yellow Magic Orchestra(1979年)
「狼なんか怖くない」~阿久悠がピンクレディーの「SOS」を発展させて書いた石野真子のデビュー曲
筒美京平と歌謡曲の黄金時代、都倉俊一が語る
1位獲得週数記録
日本人アーティスト 全米シングルチャート
沢田研二(wiki)
『悪魔のようなあいつ』圧倒的なジュリーの魅力!本人は「ジュリーと沢田研二は違うのや」と言っていた
時の過ぎゆくままに / 沢田研二(1975年)
久世光彦と阿久悠が作った時の過ぎゆくままに
ベルギーの人気歌手アダモが二十歳の時に書いた、ヤケクソ気分の失恋ソング
憎みきれないろくでなし(タバコVersion)
沢田研二といかりやのろくでなし(ドリフ・コント)
沢田研二の憎みきれないろくでなしについて
あの解散宣言の2ヶ月後にリリースされたキャンディーズ「アン・ドゥ・トロワ」
グリコ・アーモンドチョコレート
グリコ
「青春のひと粒」~グリコ チョコレートCMソンググラフティ
立原道造の世界
岩崎宏美「思秋期」(萩田光雄編曲バージョン)
岩崎宏美『思秋期』のレコーディングで涙… 飯田久彦氏
中島みゆき『わかれうた』で必ず議論になる歌詞の部分
中島みゆき / わかれうた(Amazon Music)
オリコン1位獲得週数記録
桜田淳子の第二章は「しあわせ芝居」から
しあわせ芝居 / 桜田淳子(1977年)
西崎義展の狂気』発刊記念 牧村康正氏+山田哲久氏インタビュー
ルパン三世TV第2シリーズ
大野雄二『ルパン三世 PART IV オリジナル・サウンドトラック〜MORE ITALIANO』インタビュー
九月の雨 / 太田裕美(1977年)
お化けのロック / 郷ひろみ&樹木希林(1977年)
ビードロ恋細工 / 高田みづえ(1977年)
てぃーんずぶるーす / 原田真二(1977年)
冬が来る前に/ 紙ふうせん(1977年)

1975年(昭和50年)は区切りのような年で歌謡は不作でした。特に印象に残るヒット曲が少なく、一言でいえば空白期、レコード大賞をとった「シクラメンの香り」すら記憶にありません。1970年代の10年間は歌謡の黄金時代だといわれますが、山は前半と後半で2回あり、1975年は谷間のような時期だったと思います。
リンダもアグネスも見かけなくなってしまったし、キャロルは解散し、フィンガー5はアキラくんが変声期に入ったとかでテレビに出てきませんでした。75年4月に20年続いたベトナム戦争は終結、ウルトラマン(帰ってきたウルトラマン~レオまで、1971.4.2~1975.3.28)も終了、そしてついには仮面ライダー(初代~ストロンガーまで、1971.4.3~1975.12.27)まで年内で放送終了、
小学校2年から3年生にかけて、幼年期の終わりとともに一つの時代の終わり(昭和40年代の終わり)を強く感じていた記憶はあります。
そんな停滞気味の時代の節目のような時期、
この頃、ガキンチョの興味を引いたのがダウンタウンブギウギバンドです。
サングラスにリーゼントのツナギファッションのお兄さんがギター弾きながら歌ってて鮮烈な印象を持ちました。
生真面目な青春歌謡界においてダウンタウンブギウギバンド(DTBWB)の登場はフザケてて面白かったんですね。ちょっとした痛快さも感じました、音楽ってそういうもんでしょ。(歌謡界って職業作家がレコード会社からの依頼で仕事として歌手の作品を提供するものだから業界の構造的にあんまり実験的で突拍子もないものは生まれ難いという傾向はあります)
最初にヒットしたのが「スモーキン・ブギ」(1974年12月5日リリース、最高位:4位、50.5万枚)で
とにかくどこでもタバコを吸いまくる詞の内容も面白くって私もよく口ずさんでましたが、ちょっとコミカルなヤンキー路線は
後のツッパリブームの原点になります、田舎の小学校でもリーゼントにレイバンのサングラスかけて職員室でタバコ吸ってる教員はいましたよ。スモーキン・ブギの次のシングルが「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」、
これは、ブギースタイルのギターリフにのせて、港町の繁華街にいるやさぐれた雰囲気のチンピラのような喋り口調で歌われるスタイルも画期的だし、
ヨーコを探す主人公がじょじょにヨーコへと近づいていくドラマのような展開にも引き込まれていきました。最後に汽笛がボーッとなるので、横須賀から船に乗るといえば米軍基地ですから、
結局ヨーコに逢えることは叶わず、ヨーコは軍艦に乗ってアメリカに行ってしまったんだ、とずっと思ってましたが、どうなんでしょう(?)。
これが1975年4月20日にリリースされ、6月から7月にかけてオリコン5週連続1位、80万枚超の特大ヒットを記録、
wikiによると(*)当初はカッコマンブギがA面で港のヨーコはB面扱いだったが、発売前に表題曲が有線チャートで急上昇したため、発売1か月後に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」をA面に格上げして再発売したらしいです。(*wiki)つまり再発盤は両A面ということになります、「カッコマン・ブギ」は1975年3月25日発売(?)、ジャケットは2種類ありますが、どちらも両曲のタイトルが並べてあるだけでどちらがA面なのか区別がつきません、おそらくよく知られてるシングル盤史上もっともいい加減なジャケット(白い画用紙にマジックでタイトルを書いただけ)は再発盤でしょう。
「港のヨーコ」は阿木曜子(29才)、宇崎竜童(28才)の名を世に知らしめた楽曲で、阿木曜子の作詞家デビュー作でもあります。
この曲が日本の歌謡史に与えた影響は非常に大きく、
中でも一人の作詞家と一人の女性歌手に衝撃を与え、創作意欲をかきたてることになり、70年代の歌謡界の後半戦を大いに盛り上げていくことになるんです。曲の元ネタはロリー・ギャラガーがいたバンド、Taste / Same Old Story(1969年発表)ですからブルースロックがベースにあるわけなんですが、アメリカで黒人の音楽であるブルースをルーツにして、敗戦後の体制下における日本人ならではのブルースとして昇華している(象徴としての横須賀)のだから見事というしかないです。
偉大な作品ですが、宇崎竜童によると、
ある日、宇崎が自宅に戻ると、スーパーのチラシの裏に鉛筆で走り書きされた妻・阿木燿子による詞がコタツの上に置いてあった、といいます。

キャンディーズはドリフ(8時だよ全員集合)にアシスタントとして出演していた、ドリフターズとはナベプロつながりですね、ドリフのコントの合間に歌も披露していたし、コントもこなしていた、じょじょに認知されていき、
気が付いたらそこにいたみたいなアイドルグループです。結成時期がはっきりしないんですよね、調べたら(*)スクールメイツ出身でNHKの番組「歌謡グランドショー」にマスコットガールとして起用された際にキャンディーズと命名されたらしい。(1972年4月)、その後、松崎澄夫(exアウトキャストの轟健二)プロデューサーの目に留まり「あなたに夢中」で歌手デビュー(1973年9月1日)、これをテレビで見た作曲家・穂口雄右(26才)の目に留まり、2枚目のシングル「そよ風のくちづけ」(1974年1月21日)から楽曲制作に携わっていくことになる。一方ドリフには1973年4月7日放送回には参加してますから、志村けん(1973年12月8日から)より早く荒井注時代のドリフには出演していたことになります。(*wiki)、ブレイク前の時期ですがドリフは誰もが見てましたから、一般への認知度は高かったと思います。私もセンターがスーちゃんだった頃のキャンディーズの記憶はあります。たしかいかりやが3人に向かって「歌手デビューしたんだよね」とか言ってた気が、、、、さて、節目の年にキャンディーズも転機を迎えます、「年下の男の子」(1975年2月21日)は5枚目のシングルですが、
この曲から
センターがランちゃんになってリードボーカルも担当して、ハンドマイクをスタンド式に代え、
カメラ目線で「好きなのぉ💛」って歌うから「ドキッ」てなりましたよ、ランちゃん、これ男の子ならやられるよ、そうそう生まれて始めてアイドルを意識したのは伊藤蘭だった様な気がします、、
アイドルの王道路線(視聴者を恋人と想定)なんだけど、オレオレオレオレオレの事を歌ってるんだと思った男の子は多かったはず、昔はテレビの中の世界と現実の区別がついてない子もいました、、、この曲で年下をターゲットにしてついにブレイク(売上は累計50万枚)ここからが新生キャンディーズの始まり(ジャーン)、そういやうちの近所に怖いヤンキー兄ちゃんがいて、ケツに大きく「蘭」の入れ墨を入れてたな、それほどの名曲、
年下の男の子というコンセプトはランちゃん(20才)を前面に押し出した「お姉さん」路線からの着想ですが、これ営業戦略上とても鋭い着眼点で、
75年末に発売され翌年に大ヒットした「およげ!たいやきくん」(オリコン史上最高の売り上げ、370万枚)や後のピンクレディーの成功でも子供層には膨大な市場があることが知られるようになります。昭和40年代生まれならわかると思いますが、音楽コンテンツに限らず、70年代中盤頃から、
急速に豊かになって過去にはなかった新商品(音楽、漫画、映画、玩具、家電、服、車、エロ、etc)があふれ出してきたから(当時の親世代はついていけてなかった)、商品広告も子供(若者)をターゲットにしたものが多かったな、70年代も半ばごろになると小学生がレコード買うのも普通になってきます。昭和50年だからシングル・レコードが500円、500円紙幣が流通していた時代ですよ、翌年の昭和51年には600円、昭和55年には700円、豊かさに比例して値段も上がっていきます。
キャンディーズの制作側の布陣を見ればお気づきかと思うが、GSのバンド、アウトキャストのメンバーたちによるものなんです。
ビートルズの来日(1966年)によって60年代の後半に日本でGSブームというものが起き、そこで多くの和製バンドが生まれますが、70年代初頭ではバンド活動では食っていけず(受け皿がないのでビジネスとして成立しない)、そこから音楽業界に進んだ者も多くいた(プロデューサー、作詞家、作曲家、スタジオミュージシャン、etc)彼らは歌謡の音楽制作に携わっていくことになりますが、ロックを体験した世代が音楽業界に入って音作りを担っていくことになるんですね(つまりロックが歌謡に取り込まれていくということ)、
この制作側(売り手)とリスナー(買い手)の構造は80年代以降より強くなって続くことになります。彼らが若者を通してさらにその下の世代の子供たち相手に商売をするという、狙いうちにされてるような感覚はありましたよね。

「♪くち~づけ~のそのあとで」ってあれは何という曲だったっけ?桜田淳子唯一のオリコンチャート1位のヒット曲で
人気曲ではあるんだけど、私は長らくこの曲を忘れていて30数年ぶりくらいでふと思い出した曲、
歌謡曲って大概そうなんですが大ヒットしたわりには顧みられる機会が少なくて、
それでも幼少の頃の流行歌ってある日突然頭の中に降りてくるから不思議、既にネットも普及していて歌詞の一節を覚えていれば検索できますから、レトロ好きの向きには便利な世の中になったものです。
すぐにYouTube動画も見つかり、タイトルもずっとわからなくてその時に初めて知った。
微笑み天使こと桜田淳子(本名:桜田淳子)さんは中2(14才)の時に「スター誕生!」に応募して
(*)1972年7月19日の秋田県民会館で行われたテレビ予選で番組史上最高得点となる573点で合格、第4回決戦大会において歴代最高である25社からの芸能プロダクションおよびレコード会社からの指名を受けてチャンピオンに(*wiki)
「歌が上手い」ではなく「親しみやすい」「可愛らしい」「キラキラ輝く」といった今日のアイドル☆スター像のイメージを形作った元祖アイドルと言えます。何しろスター誕生での登場が鮮烈であまりにもアイドルとして理想形だったので、淳子ちゃんを見たまんま浮かんだイメージを音楽やプロモーションで具現化していったというのですから、、
阿久悠は初めて桜田淳子を見たときの印象を
「テレビ時代のスターを決定づけるだけの効果があった」と興奮気味に自著で語っています。
そのため桜田淳子との出会いの余韻も醒めやらぬなか、それから3ヶ月後の第5回決戦大会に出場した百恵ちゃんに対して阿久悠は少々辛口評価になるんだけど(後述)
それほど淳子さんはデビュー当初が最も可愛かったし輝いていました。いわゆる美少女、私にも同様の記憶があります。(引退時がピークの百恵ちゃんとは対照的)、
トレードマークだったキャスケット(エンジェルハット)を被った「天使も夢見る」の映像がYouTubeでも見れますがとても可愛らしいですね。言っときますけど14才~15才の桜田淳子の映像はとても貴重なものなんですよ。当時はテレビを録画する手段がなかったし、ピンナップ等が掲載されてる雑誌類(小学○年生とか週刊少年漫画とか)も親に捨てられてしまいますので、私のようなリアタイ世代にとってさえ桜田さんの初期の容姿は幻となっているんです、
阿久悠は「彼女こそ現代の天使」だと公言してデビュー時から寵愛しており、
1作の例外を除き、デビュー作の「天使も夢見る」から20枚目「もう戻れない」まで作詞を担当しています。
コンセプトは「少女の成長記録」路線ですから、淳子さんがシングル曲を発表するたびに、聴き手は
「インコ飼ってるんだ」「あぁ好きな人がいるんだ」「占いに凝ってるんだ」「恋人ができたんだ」「別れたんだ」「もう17になるんだね」「また好きな人ができたんだ」「また別れたんだ」、、、
などとお茶の間に近況日記を報告するかのように、えんえんと少女の成長記録を堪能することができるようになってます。(桜田淳子のシングル曲をつなげると一つの物語が完成することを解析したサイトがありますので下にリンク貼っときます。)、まあこの物語の最終章は「結婚」だけれどとんでもないオチがついて世間を騒がせるような事になるんですが、その話は置いといて、、、、一つ一つはなんてことのない他愛のない歌でも少女の成長物語として全体が繋がっていると、購買層であるファンも作品と一緒に成長していくこととなって、ファンは離れていかなくなり、結果として長く広く愛される事になります、後の松田聖子(詩作は松本隆)などでも踏襲されるアイドルの王道ですね。
「はじめての出来事」は、同級生で親友だけどライバルだった百恵ちゃんがあまりに大胆な歌詞で攻めてくるので、焦った阿久悠が淳子さんにそろそろキスをさせようとしたのか、「はじめて~」より半年前にリリースされて大ヒットしていた百恵ちゃんの「ひと夏~」の影響は確実にあるでしょうね、当人同士は親友でも制作サイドでは競い合っていたといいますからね(ソニー VS ビクター)、タイトルからして「ひと夏の」→「はじめての」、「経験」→「出来事」、つまりどちらも「初体験のこと」ですし、
百恵ちゃんと同じ状況下に置いた場合、淳子ちゃんならどうなるだろう?、ウブで未だぎこちなさも残る天使だから、
「♪あげるわ~」とはならない、「♪汚れてもいい」なんて言いませんね、淳子版「ひと夏の経験」は、はじめてのキスで真っ赤になって動揺して「♪どうし~ていいのかわからない」となります。といってもキスだけなんだけどね、、、清く正しく美しく、なんてったってアイドルを地で行く淳子、
百恵ちゃんとは実に対照的なタイプですね。本来ならこちらが(阿久悠的には)健全な16才で、百恵ちゃんやピンクレディーの方がよほど異端なんですけど、そこは歌の世界、当たり前の事を歌で追及しても面白くもないですから、ヒットに結び付くかといえばまた別問題で、阿久悠は「ぼくらは桜田淳子に対し、まるで親か先生のように、一歩一歩年齢の階段を上らせ、それにふさわしい歌を与えようとしていたが、ここはやはり、親でも先生でもなく、日常を超越させる演出家であるべきだったかもしれない。」
と清純派一辺倒でヒットを続けていく事の難しさを語っています。まあ男子からすれば「どうしていいのかわからない」と言われても困ってしまうわけで、これがのちのち私の中で桜田淳子に対する「じれったさ」問題となっていくんですよね、(いつか機会があれば書きます)、まあ秋田の純情な田舎娘というのもあるんでしょうけど、(百恵ちゃんは横須賀だもんなあ)、、
似たようなのが続くと飽きますからね、どうプロデュースしていくべきだったかはどこかのアイドル専門家に任せるとして、、、、路線といえば、当の淳子さん本人はどこまで意識していたかは興味がつきないとこではあります、親友に山口百恵がいて、作家に阿久悠がいる環境下で
自分の歌はどうあるべきかという意識をもたないはずはないだろうから、
おそらく淳子さんは自分に忠実であることに意識的にこだわり続けたのではないでしょうか、という気がします。コンサバティブで潔癖症なとこありますよね。
スター論になってしまうけど万人受けを持続するのって相当高いクオリティを常に要求されますから、大変だと思いますよ。
ともあれ淳子さんはアイドルとしては十分すぎるほど成功してるし(シングルは累計で600万枚近くを売り上げ、トータルで18曲がベストテン入り)、トップアイドルとして長きにわたり親しまれてきました。
「彼女ほど何に対しても素直で真剣な女性を私は知らない。自分を追いつめないで」とは百恵ちゃんによる人物評、純真、懸命、真面目、淳子さんてたぶんそういう人、
1975年を境にして例の鼻にかかったような歌声に変わっていきますが、この頃は変わる前で私は初期の拙い歌声のほうが好きです。私的に「わたしの青い鳥」、「はじめての出来事」がベスト、
作曲者である森田公一の作品は非常にポップでリズミカルな可愛らしい曲が多いですね。他にも天地真理、アグネスチャンなど、ローティーンアイドルポップサウンドを確立した代表的な作曲家だと思います。
この曲は1974年の暮れに発売され、1975年の初頭に大ヒット、1975/1/6日付で4位、1/13日付で2位まで上昇し、首位を爆走していた百恵ちゃんの「冬の色」と争って2/3日付で念願のチャート1位に(4、2、2、2、1、4)、ジャケットは得意のガッツポーズ、
1975年(昭和50年)は淳子さん絶好調の時期でシングルレコード売り上げ年間第1位、ブロマイドや各種人気投票でも女性歌手部門で1位に、「十七の夏」他、一連のヒット曲で第17回日本レコード大賞・大衆賞を受賞しました。

そう二人は双子の姉妹のようだった、桜田淳子は阿久悠の寵愛を受けていました。
70年代の歌謡史を山口百恵(本名:山口百恵)視点で見るとき、それは巨大な阿久悠帝国に挑んだ14才の少女といった構図が浮かび上がってきます。百恵ちゃんの8年の芸能活動は阿久悠との抗争史でもありました。
スター誕生で審査員である阿久悠に辛辣なこと「青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌は・・・・・・・あきらめたほうがいいかもしれないねェ」と言われて僅かながら持ち合わせていた自信はガラガラと音を立てて崩れてしまったという(山口百恵「蒼い時」より)、
阿久悠は「あれは妹役程度の女優にしかなれないの意味ではなく、妹役になら何の努力もなく、この場からドラマのスタジオに連れて行ってもすぐに存在感を示せるの評だった」、と後に回想している(阿久悠「夢を食った男たち」より)、
これが両者の確執の要因かは定かではないが阿久悠は生涯、山口百恵に詞を提供することはなかったし、百恵ちゃんサイドからの依頼もなかった、後に阿久悠は山口百恵の類まれな独特の魅力に気づき、ファンであることを明かすことになるんですが、スター誕生の時点ではいかに阿久悠といえど出会って数分程度でそこまで見通せるものでもないでしょう。
スター誕生(1973年)での山口百恵の映像はYouTubeに上がってますので、ここは各自が阿久悠に代わって審査してもらってもよいと思いますが、、この時点での阿久悠の評価も無理からぬものだと私は思います。(正確なやりとりは不明だけど審査員としては失態)、
ただ公開の場での辛辣な批評(と百恵ちゃんは受け取った)は本人の自尊心をひどく傷つけたという事なのか恐らく百恵ちゃんは言われて
敵愾心を燃やすタイプなのか、、
貧しい母子家庭で父親を否定して生きてきたという自負もあったのかもしれません。
自著「蒼い時」にあるエピソードで強烈なのが、百恵ちゃんが高校生の時、~授業中に担当教師が百恵ちゃんの机の前まで来て「娘がファンでね、サインがほしいんだよ」、次の授業の時間にも「ヘェ、あんた可愛い時計をしてるねェ」
と言ったのを、これが教師の言葉だろうか、許せなかった、こんな教師に何かを教わるのも嫌だった。と許すことができずに、その教師の授業を全面的にボイコットし、その教師の授業の際は教室を移動せずにひとり教室に残って本を読んでいた。それは卒業まで続き、通知表のその教師の担当科目である商業の箇所には赤字で「番外」と書かれたまま高校を卒業した~ というのだから
凄絶というか傑出した気性の一面が窺い知れます、この人は菩薩というより修羅ですね。ステージでみせる気迫はやはり伊達ではありません。

