2022/09/01

pink generation

「ピンクの世代」
ピンクレディー世代といっても、あまりに色んなことが流行りましたので、とても追いきれるようなものではなく、ピンクレディー旋風の真っ只中、1977年(昭和52年)の「秋」の流行歌を取り上げてみたいと思います、 秋は人恋しく誰かのことに想いをよせる季節、 寒くなっていく気温と人肌のぬくもりほしさは密接な関係があるとか、 この年の秋、ジョー山中は「ママ、ドゥユーリメンバー」と唄い、山口百恵は「もう少しあなたの子供でいさせてください」と唄い、ピンクレディーは「あなたなしでいられない」と唄い、ジュリーは「忘れてしまったよ」と唄った。





人間の証明
「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね、ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりずみ)へ行くみちで 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。母さん、あれは好きな帽子でしたよ」この松田優作のナレーションと宙に舞う麦わら帽子の映像が頻繁にテレビCMで流されていたのは私が小学5年生の夏の終わり頃でした、、、、1977年(昭和52年)の秋に公開された映画が「人間の証明」、前年の「犬神家の一族」に続く角川映画の第2弾ですね、いわゆる角川商法といわれる手法でとにかく宣伝しまくるので頻繁にテレビで映画のCMが流れていた、CM効果でテーマ曲もヒットしました。日本で映画主題歌がヒットするなんて事はそれまではなかったと思います。「人間の証明」が初めてで、後の「野生の証明」(1978年)や「セーラー服と機関銃」(1981年)等などの一連の角川映画主題歌のヒットにつながっていくことになります。ちなみにユーミンの再ブームも角川の「ねらわれた学園」(1981年)がきっかけだったりします。 CM効果と書きましたが、それに見合うだけ映画の内容も非常に面白くて、角川映画は70年代後半から80年代にかけて国民的な娯楽コンテンツとして人気を博していくんですが、言うまでもないですね。 「キスミーに行く」と言い残して一人の黒人青年がニューヨークのイースト・ハーレム(スパニッシュ・ハーレム)をあとに東京へと向かう。ところが青年は東京ロイヤル・ホテルの42階のエレベーター内で何者かに胸をナイフで刺され、西条八十詩集を抱いたままその場に倒れて死んでいた。男の名はジョニー・ヘイワード、警視庁の刑事たちはジョニーが死にぎわに口走った「ストウハ・・・」と「キスミー」という謎の言葉を手掛かりに捜査を開始した。 物語の設定は1970年代半ばの映画公開当時の現代(原作は1975年に「野性時代」で連載)黒人青年の発した言葉の謎を追って30年前の敗戦直後の混乱期である1940年代へと記憶を辿っていく展開が面白くて物語に惹きこまれていく。事件に絡む主要人物は30年前にも少なからず因縁があった。松田優作演じる棟居刑事は30年前は浮浪児として、 ジョニーの父親ウィルシャーヘイワードは進駐軍として横須賀のキャンプに、 ファッションデザイナーの八杉恭子は横須賀の進駐軍相手のバーのホステスとして、 ニューヨークの刑事ケン・シュフタンも進駐軍兵士として日本に居た。 1941年~1945年が太平洋戦争、1945年~1952年が連合国軍占領期だから、、 1970年代(1970~1979)当時は30代以上の大人なら誰でも戦争体験があるわけです、観る側もこの映画を通して30年前にタイムスリップし戦後の混乱期を思い出していたはず、 私はちょうど小学校で日本の歴史(社会科)を学んでいる(いわゆる自虐史観)時期で日本は戦争に負けたということは認識しており、具体的にどういうことが起きたのかを深く考えるようになりました。 まあ考えてもわからないんですけど、教科書に書かれているように原爆落とされて 戦争に負けてハッピーエンドになるはずもなく、例えばケンカで勝ったら負けた奴をどうするかといえば→2度と逆らえないようにする→根本的に逆らえないようにする→学校教育で都合のいいように子供を作り変える、とそんなような事を薄々想像してはいました(陰謀論とかではなく一般論)、また この映画をきっかけに何が起きたかをアレコレ想像しては暗く傷ましい気持ちに、、敗戦後の混乱期、無秩序で誰もが生きるのに必死な時代、こういう話は人の数だけあっただろうと、想像してしまいます。 角川映画は総じて怖いんですが、黒人の子を孕むというショッキングな内容、、 フィクションだけれど、戦争に負けるとこういう事が起きるっていうある意味実話、なにしろジョニーヘイワード役のジョー山中自身がそういう境遇にある。GIベビーは数にして20万人とも言われるが、 彼らは日本人の母親のことは知っていても、父親の事は知らない、父親の事を尋ねても戦地に行って亡くなったと聞かされる。 占領下で恋愛関係があった?あるわけないでしょ、生まれた子がシロンボなら白人に〇〇〇され、クロンボなら黒人に〇〇〇され、暴行され凌辱されてつまりそういう事、パンパンだとしてもオンリーさん(八杉恭子はおそらくこれ)だとしても母親がいる子はまだ幸せなほうかもしれない、孤児院に預けられた子は母親も知らないですし、病院や駅、停留所といった街中に遺棄されたとの記録もあって、道端に遺棄され亡くなった混血の「GIベイビー」達の慰霊碑も実在する。 仮にたまたま生きることのできた運の良いベビーが20万人とするなら、 生きることもできずに遺棄された嬰児は膨大な数に上るはず、、

(*)日本が占領されて間もなく、米兵による大量レイプが横行し、10日後には彼らはレイプの発生件数を数えるのをやめてしまった。「日本が降伏した後の神奈川県占領下で、最初の10日間のレイプの報告は1336件もあった」(*wiki)

雨の中、「天気が悪いよ」と言いながらフォード・マスタング・マッハ1に乗って登場するのが岩城滉一、いきなりホステス(范文雀、はん ぶんじゃく)を轢いてしまう、当時はムスタングマッハワンと呼んでました、それからヒロシに借りたハーレーで時計を探しに首都高速大爆走、 、NYに行っては現地で強奪したポンティアック・ファイアーバード(エスプリ)でマンハッタンを大爆走、この2代目ファイヤーバードも (エスプリの上位グレードでであるフォーミュラ400やトランザム)日本では人気がありましたね。 無骨な造形美がたまらないです。 3台もの車やバイクを駆って派手なカーチェイスシーンも見どころ、70年代はアメリカや日本で多くのカーアクション映画が作られましたが、本作品にも影響が見受けられます。前年まで東映でやってた岩城滉一の暴走族シリーズの流れも汲み(族は出てこないけど)、娯楽要素を盛り込んでる事から金かけてるのがわかります。(クルマ選びのセンスは恐らく岩城さんでしょ) 残念なのは声が吹き替えで岩城さんらしい存在感がない点、台詞だけでも録り直せばいいのに、、 岩城演じる郡恭平を追ってNYに渡り、「なんじゃあこりゃあ」と怒鳴りながらハーレムの黒人チンピラをドツキまくるのが松田優作、やっぱり優作の暴力シーンは迫力あります。ニューヨークのシュフタン刑事に銃口を向け引き鉄を引く優作、 後年の出演作「ブラックレイン」ではチャーリーの首を斬り落としてました。優作も出生は複雑ですが、 あそこまで日本人のある種の感情を映像で表現した俳優を私は他に知りません。


松田優作「ばかやろう!、てめえはそれでも人間か、てめえいったい日本人何人殺せば気が済むんだよ」


芸能界麻薬汚染事件:
この映画のCMが流れている頃、1977年の夏から秋にかけて芸能人が薬物で一斉に検挙されるという事件がありまして 映画が話題になっている頃、 (*)1977年7月29日に郡恭平を演じる岩城晃一(李光一)が覚醒剤取締法違反、並びに銃刀法違反(拳銃所持)で逮捕された。 逮捕理由は、前年1976年(昭和51年)12月17日に杉並区の友人宅で住吉会系暴力団組員から買った覚醒剤0.02グラムを使用したため。その暴力団組員と岩城は、安藤昇(元暴力団安藤組組長)が主宰する所属プロダクション「安藤企画」で知り合った。また、その保釈中に改造ピストルを組員に預けたとして、銃刀法違反で再逮捕、映画撮影は終了していたが、アフレコ(撮影後の台詞録音)には参加できず、映画では吹替えとなっている。
1977年8月11日にはジョニー・ヘイワード役のジョー山中(山中明)が大麻取締法違反で逮捕される。山中は佐世保署の追及で内田裕也(同年9月24日検挙)に2グラムと、美川憲一(同年10月13日検挙)に1グラムのハッシッシを渡したことを自供、以上、佐世保コネクションと呼ばれている。 その後、「芸能界薬物汚染事件」は佐世保ルート以外にも広がりを見せ、井上陽水、研ナオコ、内藤やす子、にしきのあきら(金明植)、桑名正博、上田正樹、検挙された芸能関係者は70人に達した。(*wiki)
当時は、ジョーは内田裕也のバンド(フラワートラベリングバンド)のボーカリストを務めるなど活動歴は長いものの、一般的にはほぼ無名といった存在で、 逮捕されて、 ラジオでのオンエアが自粛されたが、前述の角川商法によるテレビCMで頻繁に「人間の証明のテーマ」が流されており大ヒットになります。 この映画と主題歌が大ヒットして日本中の注目を集めている最中、なんと当人は大麻不法所持で「拘留中」という、一般への認知のされ方も衝撃的でした。第一印象がこれなんだから誰もがジョーはヤバい奴だと思うでしょ。勾留は75日間におよび、おそらく10月中旬頃に出所、たしか出所後にはじめて映画も主題歌も大ヒットしていることを知ったとニュースで語っていたような、、釈放された足で映画館へ行くと、風貌からバレてしまいサイン攻めにあったという、 ただこれで強烈なイメージが定着してしまったんじゃないですかね。当時もその後もジョーはテレビ番組に出演することありませんでした。ジョー山中って生涯テレビ出演はないんじゃないかな。
一連の芸能人の逮捕が大麻の不法所持だったのに比べ、岩城さんだけは覚醒剤と拳銃所持ですから、もっとヤバいと思います(笑)、復帰は松田優作の「探偵物語」(第11話、第21話)や、「北の国から(1981年10月~)」の草太兄ちゃん役からでしょう、よく復帰できたもんだと思います。(「北の国から」で草太兄ちゃんが出てきたとき「あ、シャブとピストルの人」と誰もが思ったとか思わなかったとか)、これは優作や脚本家である倉本聰さんの尽力が大きいでしょうね。優作もかつて暴力事件で謹慎していた事がある(1975年7月~1976年3月頃)、倉本に岩城を紹介したのは安藤組の安藤昇
倉本聰「それで撮影(前略おふくろ様第2シリーズ)が終わったとき、安藤さんに“お時間ありますか”って誘われて、渋谷でお茶を飲んだんです。すると“うちに若い衆がひとりいるんですが、会ってやってくれませんか”って。そしてすぐ駆けつけてきたのが岩城(滉一)だった。物おじしないし面白い。安藤さんが“こいつを『前略』に出してやってくれませんか”って言うんで、急遽、最終回にシーンを書き加えて登場させたんです。そしたらたちまちショーケンと衝突した。 面白いやつだから、レギュラーで出したんです。(「あにき」(77年、TBS系))ところがその後、岩城がとっ捕まっちゃった。容疑は覚せい剤取締法違反と銃刀法違反(拳銃所持)。それで岩城は完全に干されるわけですよ。何年かして、フジテレビで『北の国から』をやる時に岩城を出演させることを条件に引き受けた」(倉本聰「ドラマへの遺言」より)


広島:
私は生まれが広島県(のとある市郊外)で、広島県には学校に平和教育(人権教育ともいう)というものがありまして 内容はというと「原爆、平和、部落差別、人権、身障者」なんですね、8割原爆、ですから原爆の惨状を教えこまれてまして、峠三吉(とうげさんきち、日本共産党員)の恐ろしい原爆の詩を朗読させられ、原爆の歌を合唱させられ、夏になると教室に監禁されて千羽鶴を折らされ、遠足と称して鉄格子のついた護送バスに乗せられ、原爆ドームのある広島平和記念公園まで千羽鶴を携えて巡礼に連れて行かれるんですよ。(初めて行ったのが1976年、小学校4年の夏)広島市に遠足に行くなら宮島に行きたいとか広島市民球場に行ってカープの試合を観たい、とかあるじゃないですか、行かせてもらえません、原爆ドームに直行直帰(バス往路→原爆ドーム→原爆資料館見学→原爆資料館の下でお弁当→原爆慰霊碑の前で記念撮影→バス帰路) 広島平和記念公園に着いたら原爆資料館にて展示物を閲覧させられるんですけどトラウマになります。 正直、気分が悪くなりました、でもこれが歴史の現実です。 原爆資料館には写真や瓦礫や遺品が陳列されていて、ありのままの事実を淡々と伝えるいたってフェアな内容、一般的によくいわれる放射線被害よりも惨たらしいのは「熱線」の凄まじさ。行った事がない人は一度行ってみるといいです(キレるから)。あるいは行かなくてもネットでも惨状は一部閲覧できるので「原子爆弾」+「熱線」というワードで検索してみるといいです(キレるから)。
原爆投下だけはどうしても許せなくてアメリカに対して「親しみ」を抱きつつも、一方で「許せない」という二律背反する気持ちが子供の頃からずっと私の中にあるのも事実、私は反米ではないけれど、かといって媚米にもなりたくありません。


「人間の証明のテーマ」

Mama, do you remember
the old straw hat you gave to me
I lost the hat long ago
flew to the foggy canyon yeah

Mama,I wonder
what happened to that old straw hat
Falling down the mountain side
Out of my reach like your heart

Suddenly the wind came up
stealing my hat from me yeah
Swirling whirling gusts of wind
blowing it higher away

Mama,that old straw hat was the only one
I really loved
But we lost it,no one could bring it back
Like the life you gave me

Suddenly the wind came up
stealing my hat from me yeah
Swirling whirling gusts of wind
blowing it higher away

Mama,that old straw hat was the only one
I really loved
But we lost it,no one could bring it back
Like the life you gave me
Like the life you gave me


母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?
ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりずみ)へゆくみちで
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ

母さん、あれは好きな帽子でしたよ
僕はあのときずいぶんくやしかった
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね
紺の脚絆に手甲をした
そして拾おうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね
けれど、とうとう駄目だった
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでしょう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでしょうね
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでしょう
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく

原詩:西條八十「帽子」より
英訳:角川春樹
英詞:ジョー山中
作曲:大野雄二
レーベル:ワーナーパイオニア
定価:600円
発売:1977年8月10日
最高位:2位(6週)
映画「人間の証明」公開:1977年10月8日






秋桜(コスモス)
歳を重ねるごとに和風好きで仕方なくなってきますが、山口百恵(18才)の「秋桜」は和の美学の最高峰の作品だと思います。 私が言うまでもなくこの曲は日本の歌百選に選ばれるほどの名歌であるわけなんですが、完成までに非常に時間がかかったという事でも知られています。というのもレコーディングに時間がかかったわけではなく、最初にさだまさしに曲作りの依頼があって、さだまさしによる山口百恵の分析から始まってますから、、、テーマが「結婚」なのは、この人(山口百恵)は芸能界に長くいる人ではなく引退して伝説になる人なんだろうな、という予感があったといいます。さだは「俺には突っ張っているようには見えない。日本女性の奥深さを感じる」と百恵さんを評した。さらに「この人は芸能界にあまり長くいたくないのだろう。スターになったがために責任感でここにいるけど、早くやめると幸せなんだろうなあ。やめればいいのに」と感じていたという。(日刊スポーツより) さだによる百恵の批評ですが、まさに本質を言い当てていると思います。作品としての「山口百恵」ではなく人間「山口百恵」の内面を深く見つめて、つまりスター歌手の理想としての結婚~寿引退をテーマに選んだという事です。和の美を構築する上で山口百恵とさだまさしという組み合わせは究極といえますが、二人のたった一つの作品がその後の山口百恵の運命をも決定づける事になります。

制作に非常に時間がかかったという経緯を下表に時系列でまとめてみましたが、 最初にさだまさしに曲作りを依頼したのが1975年ですから、百恵ちゃんが16才の時、さだ自身、グレープ解散などのゴタゴタがあって、さだがソロ作品を発表した後にそれを聞いた百恵ちゃん(17才の時)から再度催促してることから、百恵ちゃんとしてはさだの繊細な詩世界に強く惹かれていたことがわかります。自ら阿木=宇崎に依頼した曲「横須賀ストーリー」(76年6月)の成功で、百恵ちゃん本人による作家指名に自信がついた事もあるでしょう。自分で山口百恵をセルフプロデュースしていくという楽しさに目覚めたのかもしれません。(この辺が普通のアイドルとは違うところ)、 さだもまた百恵ちゃんを分析して非常に繊細で感受性が強い人物と評しているので、繊細で感受性の強い似た者同士 (いわゆるHSP:Highly Sensitive Person)でお互いに超・能力で通じ合うものがあって制作された奇蹟的な楽曲なのだと思います、 さださんは妹、弟、親父など実在するごくごく身近な人物や日常の些細な出来事に非常に多くの事を読み取り、細かく描写できる感性を持っているのでそれに百恵ちゃんが敏感に感応したということなんでしょうね。

制作経緯:
時期証言
1974年~1975年 山口百恵「私がさだまさしさんの存在を知ったのは、「精霊流し」、この歌の頃は「グレープ」としてよくテレビ出ていたんですよ。ほっそりとして、なんていうんだろう線の細い印象でね。まわりの歌い手さんたちとちょっとなんか違うな、、という感じは受けてました。グレープの歌で「精霊流し」とか「朝刊」、とってもあったかい感じがしてね好きでした。~でもあたしに歌える世界では決してないっていうイメージでずっと思っていたんですよね。」
1975年8月(?) 最初の依頼
さだまさし「そろそろまさしの歌を歌わせたいから1曲作ってくれ、と担当プロデューサー(ソニーの酒井政利?)から依頼があった」

山口百恵「8月ぐらいだったんですよね。さださんもその話は受けてくださって、ただ「いつできるかはわかりませんよ」という話だったんですよね、でやっぱりいい歌をうたいたかったし、時間で制約してしまってさださんの世界が壊れてしまったら歌う価値がなくなってしますから「いいです」ということでずっと待ってたんです。」
1976年4月 グレープ解散(さだまさしと吉田正美によるフォークデュオ)
1976年 さだまさし、一時業界からはなれ就職活動
1976年11月25日 さだまさし最初のソロアルバム「帰去来」リリース
1976年11月(?) 2度目の催促
山口百恵「さだまさしのソロアルバム「帰去来(ききょらい)」を聞いて「あ、歌いたいな」てふっと思ったんです。」それでぜひ歌いたいっていうことでまたお願いした。こんなに繊細でデリケートな世界をあたしなりに、女っていういろいろな様々な感情とかそういうもののなかで。さださんの世界をとらえたらどんな風になるんだろうなって、~それでぜひ歌いたいっていうことでまたお願いしたんです」
1977年前半 曲作り
さだまさし「じゃあ作ると決めたら一体どんな曲を作ろうか。それについてやっぱり山口百恵についてじーっとね、言動その他を本で読んだり表情を見ているうちにね。~素直じゃないのね、所謂画面上において山口百恵を演技しているんじゃないかという気がどうしても未だにするわけです。~とっても繊細な娘で感受性豊かで、ただそれを表にあらわしたりなんかすることに照れを感じる類の人で。~すごく感受性が強くてもそれを、自分が感情を表に出すことに照れを感じる種類の人間って必ずある。彼女はそういう人種だろうと、おそらくたぶん自分に似てるんだろうと、決めたわけですね。 それで、じゃあ本音を吐くときには一体どういうときかというと、それは明らかにこれが本音だとわかって恥ずかしくない相手の前でしか本音を吐かないんだろうなと思ったりした。で、かなり芯の強い人だろうから、うっかりしたことでよろめいたりして見せることはしない人だろう。彼女はやがてだれかの元へ嫁ぐ。あっけなく嫁ぐと思ってたんだけれども。~その時の「結婚前夜」を歌ってやろうと思ったわけです。これは作るときにはかなり山口百恵を意識したんですね。僕の想像の中での山口百恵はこう感じるであろう、こう言うであろう。そういうところからの歌ですね。」

山口百恵「待ち続け・・・待ち続け・・・」

おそらく、さださんは百恵ちゃんを分析しているうちに魅力にハマっていったんだろうと想像します。
1977年6月 曲完成
山口百恵「初めは「秋桜」ではなく「小春日和」というタイトルで出来てきたんです。初めてこの歌を聞いた時、あたしはどちらかというと~「母」という人の存在に対してとても大きなものを感じているタイプの人間なんで~ものすごく感動しちゃってですね。~この歌はもう自分の中のひとつの「私小説」感覚でね。自分のドキュメントっていう感覚で歌いたいなって思った歌なんですけどね」

「秋桜」が百恵さん(18才)のもとに届けられた直後、さだまさし(25才)は電話で話した。「百恵ちゃんにはピンとこない曲でしょ」と言うと、「はい。実感が湧かないんです。だから上手に歌えないんです。すいません」。素直な返事だったと感じた。そこで「好きなように変えて歌ってくれていいんだよ」と伝えた後、「なぜ、私があなたにこの歌を作ったのか、その理由が分かる日が早く来ればいいね」と付け加えた。
1977年6月~8月 「秋桜」レコーディング、 「小春日和」というタイトルだったが、曲を聴いたCBSソニーの酒井政利プロデューサーの提案で「秋桜」に変更となった。
1977年10月1日 「秋桜」リリース、オリコンチャート最高位3位の大ヒット(5週連続)、50万枚近いセールスを記録
1979年10月20日 三浦との恋人宣言を突如発表
1980年10月5日 山口百恵引退
結婚を期に引退する日本武道館でのラスト・コンサート、「"ありがとう"という言葉をどれだけ重ねても、私の気持ちには追い付けないと思います。私のわがまま、許してくれてありがとう、幸せになります」そう言ってステージにそっとマイクを置いてファンに別れを告げたパフォーマンスの直後、電話で次のメッセージをさだに送っている。

「さださんがこの歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。本当に、本当にありがとうございました。山口百恵」

同日、大阪市内のホールでコンサートを終えたさだまさしが定宿のホテルに戻ると、フロントマンからメッセージを渡された。そこには「本当に、本当に」と「本当に」が2度繰り返されていた。これを読んださだは「もう2度と彼女が(芸能界に)帰ってくることはないな」と感じたという。
1980年11月18日 「秋桜」で歌われる小春日和の日、結婚前夜の娘と母
1980年11月19日 山口百恵、三浦友和と結婚
1993年 さだまさしのデビュー20周年によせて
「秋桜を歌えたということ、そして何よりさださんの世界に触れられたということは、とても大切な私のたからものです。三浦百恵」
(ラジオ番組「夢のあとさき」より)

言霊の歌:
縁側での母と娘の幻影はさだが山口百恵を通して視た白日夢、夢を文字で書き起こしたものが歌詞となり、山口が歌う事によって3年後に現実のものとなるという、「この人は芸能界にあまり長くいたくないのだろう。スターになったがために責任感でここにいるけど、早くやめると幸せなんだろうなあ。やめればいいのに」というさだの思いに端を発して書かれた「山口百恵が嫁ぐ日の歌」は来たるべき未来予知(プレコグニション、英:Precognition)を書き留めたものであり「歌うことそのままが即ち実現する」言霊の歌、 昔から日本では言葉には呪力があると考えられてきた。言霊ともいわれ、言葉に宿る霊力が、発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられてきた。
百恵ちゃん自身にも予知能力がある事は著書「蒼い時」でも触れられている。 「私の場合、それが現実に的中したということが少なくない。横須賀に住んでいた頃、母に頼まれ使いに出た帰り道、何気なくドブ川のふちによって歩いていた。右側のサンダルをひっかけたわけでもないのに、はずみで川の中に落とした。泣きそうな私を見て、通りすがりの中年男性が、川の中にはいってサンダルを拾ってくれた、ただそれだけの出来事を、事が起こる数分前に私の頭は画像としてとらえていた。・・・ しだいに、その小さな予知能力は自分の人生においても決定権をもつほどになってきていた。私は人生の一大事を決定するときも、この直感というものを信じた。(山口百恵著「蒼い時」より)」、つまり一切の仕事を辞めて、結婚することを選んだのも百恵さんが自身を信じる事に依るもの。百恵ちゃんはそうやって誰にもたよらず自分自身で物事を捉え生きてきた。中学2年でスター誕生に応募した際も「あ、私は歌手になるんだ」という強い予感(確信)があったといいます。

さだの言う「なぜ、私があなたにこの歌を作ったのか、その理由が分かる日が早く来ればいいね」とは 歌詞の内容が現実のものとなった時に作った理由がわかるのだから その理由がわかる日がくるといいね(やがて嫁いでいく日があなたに訪れて幸せに) という意、その3年後の返答である百恵ちゃんの「この歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。」とは、私が望む未来(秋桜の歌詞)が本当に訪れその通りになる日が来ました。ということです。 さださんは人の気持ちをよくよく見ていて、根はあったかさと強さを持った人ですね。歌詞によく表れています。
第19回日本レコード大賞で、山口百恵は歌唱賞を、さだまさしは「秋桜」と「雨宿り」で西条八十賞(後の作詩賞)を受賞した。


「秋桜」

(映像は「夜のヒットスタジオ」より、 1977.11.14)

淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない 陽溜まりに揺れている
この頃 涙脆くなった母が
庭先でひとつ咳をする

縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話 くりかえす
独り言みたいに 小さな声で

こんな小春日和の 穏やかな日は
あなたの優しさが 浸みて来る
明日嫁ぐ私に 苦労はしても
笑い話に時が変えるよ 心配いらないと笑った

あれこれと思い出をたどったら
いつの日も ひとりではなかったと
今更ながら我儘(わがまま)な私に
唇かんでいます

明日への荷造りに手を借りて
しばらくは楽し気にいたけれど
突然涙こぼし 元気でと
何度も何度もくりかえす母

ありがとうの言葉を かみしめながら
生きてみます私なりに
こんな小春日和の 穏やかな日は
もう少しあなたの 子供でいさせてください

作詞・作曲:さだまさし
編曲:萩田光雄
レーベル:CBS Sony
定価:600円
発売:1977年10月1日
最高位:3位(5週)


山口百恵論:
子供の頃の私(10才)には正直その魅力はよくわかりませんでした、もちろんいつもテレビに出ていて身近で圧倒的な存在感を示し、国民的アイドルではあったんですが周囲にまる子のような百恵ちゃんの熱烈なファンだという子もいなかったな、当時の私から見ても落ち着いていて大人しい、迫力があり過ぎて近寄り難いという印象は普通の子供からすれば誰もが感じていたんじゃないかな、私的に「ひと夏の経験」で神秘的で鮮烈な印象を受けたのは確かなんですが、それに続くヒット曲の仰々しいサウンドや、決定的だったのが重苦しいテーマの大映ドラマ「赤いシリーズ」が全然受け付けなかったというのがあります(主婦層には人気で高視聴率だったみたいだけど)、大人な男女間のやりとりも子供にはピンと来ないし、「横須賀ストーリー」の頃になるともうピンクレディーが登場してくるし、 よく比較されますが、70年代だと桜田淳子さんのほうがアイドルとしては正統派、子供受けもいい、(似たようなことはピンクレディーでもミー派とケイ派で比率が8:2くらいだったことにも言えるんだけど、)、 なので百恵ちゃん(18才)の熱烈なファン層となると、どの辺りになるのかなかなか掴み難いのですが、1つに当時の大人達の評価が一様に高かったというのがあります。まぁガキにはわからないということです、そういう意味じゃピンクレディー(子供)、キャンディーズ(学生)、山口百恵(大人)と市場は綺麗に分かれていたということになります、これに八代亜紀(中高年)を加えてもいい、この4者のメインターゲットとなる市場区分があってキャンディーズが子供を、百恵ちゃんが中高年層を取り込もうとしていた、という感じかな、だからといってピンクやキャンの音楽が子供向けかといえば、そういう事ではなく音楽への向き合い方が世代間で違うということなんだろうけど、、 もともと音楽をレコードで楽しむという娯楽は1960年代ころだと大人向けの娯楽で 、1970年代は市場を中学生高校生や子供層までへと拡大化していった時期でもありますが、百恵ちゃんはあくまで大人の鑑賞にたえ得る歌謡の保守本流(本物)を追求していたということかな、 百恵ちゃんは当時の文化人たちがこぞって取り上げ、評論していたのをよく覚えています。 それも昭和の一流のプロのオジサンたち、 写真家・篠山紀信(36才)、脚本家・倉本聰(42才)、映画監督・大林亘彦(39才)、作曲家・都倉俊一(29才)、作詞家・阿久悠(40才)、、、等々が、 まるで一級品の芸術を鑑賞するかの如く山口百恵という少女を称賛していました。天才と言われたこれらの方々に 其々の立場で山口百恵評論というものが必ず存在するので興味があれば読んでみるのもよいでしょう。 「火垂るの墓」の作家・野坂昭如(46才)(のさか あきゆき)もそんな百恵信者の一人です。

野坂昭如「戦後、なかなかスターってのは出にくかったんだけど、ようやく出てきたって感じがあるわけで、まぁ、かこつけるようだけど、高度経済成長の時には確かに使い捨てみたいなスターがたくさん出てきて、その成長に陰りが出てもっと違う価値を求め始めたときに山口百恵が出てきたっていうふうな、あの方は日本の伝統的なスターの要素を備えている、つまり 、ちょっと翳りがあって、スターには共通する非常にふてぶてしいとこがある、今の女性の中にたいていその 流行とか時代の風潮のなかに埋没してしまってる個性というものがある、個性はけして誰かが企んで作ったんじゃなくて おのずと自分自身の個性が出ざるをえないという、そういう面をあの人は持っていると思うんですね。 スターっていうのは、これは日本だけに通用するっていうもんじゃなくて、これはあの、もう 山口さんていうのは世界的に通用する。っていうか、 例えば顔立ちだけみて美人であるとか美人じゃないとかそういうことじゃなくて、 あの人が持ってる雰囲気というのは 仮にシャネル・・・・歩いてても、(シャネル本店はパリのカンボン通り) ローマのベニス通りを歩いてても(ローマにあるのはヴェネツィア広場) あるいは五番街(マンハッタン)歩いていても、たぶん外人が振り向いて、なんかこう気にするような、 そういうムードというかアトモスフィア(雰囲気)というか、そういうものを持ってる人だと思うし、 僕自身、自分自身がやがて先になって今の時代を振り返る時に、 山口百恵というスターの存在と、かこつけて、振り返るだろう。 スターとかヒットメロディというのは、 タイムマシンみたいな役割を将来に向けて行うことがあって 山口百恵のある種の歌とか、彼女の個性とか、そういうものとひきかえて、 たとえば1970年代の後半から80年代にかけて僕らは懐かしく思い出すんじゃないだろうかと、 たぶんその時に、 今よりもっと時代は悪くなっているだろうから、大変こう、あの頃は良かったという形でもって思い出すことになる、と僕は予測しますけどね。最後の黄金時代を飾る人みたいな気がするわけ。」(「山口百恵 激写/篠山紀信(1979年)」より)





ウォンテッド(指名手配)
ピンク・レディーの5枚目のシングル、タイトルは西部劇に出てくる賞金首のポスターからなので阿久悠としてはタイトルを「WANTED」と英語表記にしたかったらしい、小学生だった私は「WANT」の意味がわからず(一般的ではなかった)西部劇のポスターからきてる発想だと知ったのは随分後になってから、それもあってのカッコ付きのカタカナ表記、 これ元ネタは何でしょうね?、いろいろ調べましたが元ネタの一つにダウンタウンブギウギバンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」があると思います。なんと都倉先生には珍しく(?)邦楽が元ネタなんです。もっとも「港のヨーコ」も元ネタがロリーギャラガーのいたバンド、 Taste / Same Old Story(1969年発表)ですから 間接的にブルースロックがベースにあるわけなんですが、それだけ「港のヨーコ」は画期的な楽曲だったということです。 都倉先生もですが阿久先生への影響も甚大で、 阿久悠は「港のヨーコ」の劇画展開の作風に衝撃を受け、「なぜ自分が書けなかったのか?」と悔んだといいます。 実は阿久は盟友である漫画家・上村一夫と共に以前「ジョンとヨーコ」という劇画(漫画のジャンル)を手掛けていて、内容は横須賀が舞台で米軍基地のそばで生きるジョン17歳(ヒモ)とヨーコ16歳(コールガール)の男女のストーリー(名前の由来はもちろんジョン・レノンとオノ・ヨーコ)、これが1971年だから「港のヨーコ」の4年前、自作の劇画を歌にすることに気づけなかったと相当悔んでいた様子、阿木曜子が「週刊漫画アクション」に連載されていた阿久&上村による劇画「ジョンとヨーコ」を参考にしたかどうかについては不明、もしそうなら「港のヨーコ」のモデルはオノ・ヨーコということになるけど「ジョンとヨーコ」については私は未読なので判断つきません。(ただ阿木曜子が阿久悠の作品を熱心にチェックしていた可能性はあります、作詞家としての筆名を「阿木燿子」とするくらいですから) 阿木曜子の登場は阿久悠を大いに奮い立たせた事は想像にかたくなく、「港のヨーコ」には相当な影響を受けていたという事です。もちろん阿久の作品に自身の作品の影響が見られることに阿木と宇崎は気づいたでしょうね。 「あんちくしょうに会ったらただじゃおかない」が阿久悠の悔しさの表れなのかはわかりませんが、歌謡界で敵なしだった阿久悠が阿木曜子の才能に脅威を抱き創作意欲をかきたてられ、70年代の中盤以降、阿久悠(Aku You)と阿木曜子(Aki Youko)のライバル心は歌謡の推進力となっていくことになります。 構造としては「港のヨーコ」でのヨーコを探すストーリーの男女パートを入れ替え、女が男を追っかけている構図、 ピンク警察がルパンのような変装の名人でプレイボーイを捕まえて手錠と足枷で拘束して「くちづけ責めにしてやる!」という奇想天外な 逃亡活劇になっています。

多羅尾伴内(たらおばんない)とは:
阿久悠いわく、わかる人にはわかるというラップ調の「ある時~」の箇所は多羅尾伴内が劇中で語る台詞の有名なパロディ、 多羅尾伴内とは (*)敗戦直後の1946年(昭和21年)に劇場公開された「七つの顔」に登場する私立探偵、当時は日本を占領中のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本刀を振り回すチャンバラ劇は禁じられていたため、刀をピストルに持ち替えた頼もしいおじさんヒーロー、片岡千恵蔵主演で1946年から1960年の間、大映・東映で合わせて11作公開された、1977年当時でも30代以上の大人の幼少時の懐かしの映画のヒーロー、 片岡千恵蔵演じる多羅尾伴内(和製アルセーヌ・ルパン)が七変化をするミステリ活劇で大ヒットしてシリーズ化され1946年から1960年の間、大映・東映で合わせて11作が制作、公開された。(*wiki)
多羅尾伴内は 大見得の元祖でキューティーハニー(1972年)などでも流用されています。「七つの顔」での口上→「ある時は多羅尾伴内、ある時は奇術師、ある時は老巡査、ある時は新聞記者、またある時は手相見、片目の運転手、しかして実体は、藤村大造だ」 ちなみにキューティーハニー1作目→「ある時は花形レーサー、またある時はスチュワーデス、そしてモデル、歌い手、カメラマン、だが実体は、愛の戦士キューティーハニーさ」 片岡千恵蔵版の多羅尾伴内は11作品作られて7変化の内容も作品ごとに異なっている。

ウォンテッドのあいつと多羅尾伴内シリーズの変装人物の対比:
No.ウォンテッドのあいつ多羅尾伴内の変装
1謎の運転手片目の運転手+謎の東洋人
2アラブの大富豪異国の大富豪、アラブは阿久悠の趣味
3ニヒルな渡り鳥該当なし、「ギターを持った渡り鳥」(1959)の小林旭
4キザな若社長キザな紳士、若社長とはT&Cの相馬一比古(そうま かずひこ)でしょうか?
5真面目な医学生該当なし、多羅尾伴内の変装に学生は出てこない、ピンクのファン層向け?
6洒落た音楽家該当なし、真っ赤なフェアレディZに長身を折りたたむように乗り込み、鮮烈な印象を持った(阿久悠談)という都倉俊一のことでしょう

翌1978年にはピンクレディーのウォンテッドに触発された形で小林旭版の多羅尾伴内(東映、1978年4月)が公開され、この作品では「流しの歌い手」が登場し、主演が小林旭なので自らセルフパロディのような「ニヒルな渡り鳥」スタイルを披露、小林旭版は八代亜紀やアンルイス、さらにピンクレディーみたいな二人組のアイドル(キャッツ★アイ)も登場し歌謡マニアには堪えられない内容となっています。 キャッツ★アイは1977年に「アバンチュール」でデビューしたピンクレディーのフォロワー的アイドルで、ピンクのセクシー路線に特化したようなアイドル、ピンクのフォロワーは他にもたくさんいたようです。アパッチ、GAL、、


おもちゃ箱をひっくり返したような世界:
話を戻して「ウォンテッド」はサウンド面も相当凝っていて、やはり「港のヨーコ」をヘビィにしてビートを効かせたベース&ギターによる反復リフからギターのダウングリスによる銃声音のような効果音がかっこいい「くちづけ責めにあわせる」のピストルキス(バッキューン)、 そしてラップ調のコミカルなパートでの ケイちゃんの物凄いしゃがれ声が可笑しい「ある時アラブの大富豪」(これも都倉先生の指示によるものだとか)ちなみにこのラップのパートは、都倉さんによるとニューヨー クの路上で見たヒップホップを意識したといいます。ここは「港のヨーコ」だと「アンタあの娘の何なのさ!」に相当する箇所で「何なのさ?」の返答が「ある時アラブの大富豪!」になっているから「港のヨーコ」の歌詞と対比してみると面白いです。 「好きよ~」からはテンポが倍速になり甘いフィリーソウルなディスコビート、チョッパーベースとコンガとストリングで盛り上げてからのキメ台詞「アイ・ウォンチュー・ベイビー!」、 楽しい仕掛が満載で、ロックあり、ラップあり、ディスコありで、曲調が目まぐるしく展開しそれに伴ってダンスも複雑に変化する、 近田春夫が言うには「押して、押して、押しまくる、大袈裟なくらいのインパクトを持たせ、 これが楽曲に高揚感を与え、アッパーなイケイケムードを生み出すのだ」、 さながら3分間のロックミュージカル、ピンクレディーの可愛くてセクシーな魅力が詰まったまさに「おもちゃ箱をひっくり返したような」というピンクのコンセプト通りの様々な要素を持った楽しい楽曲です。 発売翌週(9/12)にはオリコンチャートに初登場して12位にランクイン、9/19から渚のシンドバッドに取って代わって首位奪取して12月5日まで12週(ほぼ3か月首位)連続オリコンチャート1位という特大ヒット、「ウォンテッド」は単なるアイドルのヒット曲にとどまらず イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)も翌1978年にライブでカバー、さらに東京歌謡と称してこの曲を分解して再構築、 「ウォンテッド!」を「トキオ!」に換えて「テクノポリス」(作詞・作曲:坂本龍一)作ることになります。 YMOによるカバーや再構築、 これは子供だけではなくYMOクラス(細野晴臣(30才)、高橋幸宏(25才)、坂本龍一(25才))の大人たちもピンクレディーに熱中していたという証であり、坂本龍一は「単に売れる曲を書いてやろうと思って」なんて言い方してるようですが、 気恥ずかしいのはわかりますが、カバーして解析までして再構築してシングルにして発売してヒットさせてるんでしょ、それを影響を受けてると言うんですよ。 マーティン・デニーやジョルジオ・モロダー、クラフトワークらと並びピンクレディーはYMOに直接的影響を与えてるわけなんです。 それほどウォンテッドはサウンド的に面白い。まぁピンク・プロジェクトも一流の大人たちによる遊びですからね。 YMOは他にもピンク→イエローなど影響受けてる思わしき箇所が散見されます。 YMOの結成は1978年の初頭ですから、細野の頭には ピンクレディーがヒントになった、あるいは触発された面が多いにあったと思います。やり方は違いますが、 ディスコミュージックで世界に打って出るという構想は一致してますからね。ピンクの「UFO」がYMO構想の直接的要因だと私はにらんでいます。細野さんは言わないでしょうが、子供たちが娯楽を欲してることは理解したでしょうし、そこに爆発的な需要がある事も知れた、30才のオジサンが急にやる気を出した動機の説明もつきますし、 ピンクが開拓した市場を受け継いだのがイエローですからね。いうなればピストルズを見てバンド結成を思い立ったクラッシュみたいなものなんです。 テレビ大好き大瀧詠一(29才)さんにいたっては多羅尾伴内名義で ピンク・レディーの応援歌(「Lets Ondo Again」、1978年)を作ってたくらいなんですよ。(この時期の大瀧さんは全然売れてなかった)、 デビューから「渚」や「ウォンテッド」や「UFO」や「サウスポー」といったあたりのピンクレディープロジェクトによる楽曲は歌謡のみならずニューミュージックも含め、世界レベルでも革新的で最先端の音楽だったと思います。 当時はまだ欧米に対するコンプレックスがありましたから(さすがに今はないと思いたいけど)、全米デビュー構想というのは非常に意義のある挑戦で、 そこまで視野に入れたアーティストはピンクレディーが初でしょう。そして現時点で全米で坂本九の「SUKIYAKI」(1963年)に次いで、最も成功してる日本人アーティストもピンクレディーです。(ここでも全米ツアー中に解散したセックスピストルズを彷彿とさせます)こういうところもかっこいいの、 ピンクレディーの勢いは 世界の頂点に駆け上がっていく当時の日本経済の勢いそのもの、 気付けば目視でアメリカの背中を捉え、この国のエネルギーが地鳴りをたてて加速していく、そんな時代の空気に同調している気がします。 ミーちゃんとケイちゃんがピンクの旗を掲げて時代を先導していく、そんなふうに映っていましたね。

「ウォンテッド」


私の胸の鍵を
こわして逃げて行った
あいつは何処にいるのか
盗んだ心返せ Wanted Wanted

あんちくしょうに逢ったら
今度はただで置かない
私の腕にかかえて
くちづけ責めにあわせる
恋泥棒の手配を
くぐって生きて行けない
つかまる前にこっそり
自首して来たらどうなの

ある時謎の運転手
ある時アラブの大富豪
ある時ニヒルな渡り鳥
あいつはあいつは大変装

好きよ 好きよ こんなに好きよ
もうあなたなしでいられないほどよ
空っぽよ心はうつろよ何もないわ
あの日あなたが 盗んだのよ

I want you baby, I want you baby
Wanted Wanted

両手に鉄の手錠を 足には重い鎖を
私のそばにいつでも
つないでおいてあげるわ
あんちくしょうの噂を
きいたらすぐに教えて
地球の果ての町でも
逮捕に向うつもりよ

ある時気障な若社長
ある時真面目な医学生
ある時しゃれた音楽家
あいつはあいつは大変装
There's a man who's stolen my heart away
I'm gonna get you and make you pay
You're on the loose but you won't be for long
Gonna get you back to where you belong
Wanted! Wanted!

Why don't you confess
And say that you love me too
Surrender to me before I catch up with you
'Cause I'm out to take you,Take you into my arms
Hold you and kiss you so we won't ever part

I'll get the clues and then I'm gonna pursue
Search the world through Until I catch up with you
You don't have a chance 'cause you're the most wanted man
Wanted for loving me like no other man

Please come back, back to me
Oh can't you see,You're hurtin' me
You know it's not just a game I'm playin'
When I say to you, I want you

Why did you have to go,
And leave me all alone
Do you think it's fair,
When you know I care
I want to be the one,
The one you really want

I want you baby
I want you baby
Wanted! Wanted!

作詞:阿久悠
作曲:都倉俊一
ベース:金田一昌吾
ドラム:宗谷春男
キーボード:井上鑑
ギター:津村泰彦
パーカッション:川原直美
※演奏はピンクレディーのこの時期の主なレコーディングメンバーなので確証はないです。
レーベル:ビクター音楽産業
定価:600円
発売:1977年9月5日
最高位:1位(12週)







憎みきれないろくでなし
77年夏の「渚のシンドバッド」と「勝手にしやがれ」のチャートバトルはもう伝説的ですが、「勝手にしやがれ」の次作が「憎みきれないろくでなし」です、いよいよ沢田研二(29才)が本気出してきた時期で、ポリスハット、つけぼくろ、カミソリブレスレット、安全ピン、タバコを吸いながら歌う(歌いながら投げる)など派手な衣装でのステージパフォーマンスもえらいカッコいい作品で これも速攻でレコ屋に走った記憶があります。奇しくも「ウォンテッド」と同日リリース、ピンクVSジュリーの第2ラウンド!、、ヒットチャートではピンクの圧勝でしたが「ウォンテッド」と「憎みきれないろくでなし」あなたならどちらを選びます?、、、、、、私はこれでジュリーにやられたのでした。好きだったなコレ、冒頭から異様なテンションでエレキギター(井上堯之、Gibson L-6S)がここまでうるせえド派手な歌謡ってそれまで聞いたことがなかったです、ジュリー版グラマラスロック炸裂なんですがボウイもストーンズもジョニーサンダースも知らないガキには非常に刺激的に映りました。 ジュリーは活動歴も長くこの時点で通算21枚目のソロシングルなんですが、当時の小学生目線だと、ジュリーに注目したのは「勝手にしやがれ」以降ですね。それまでは全くのノーマーク、布施明などと同様やたらと女性に人気のあるイケメンのバラード歌手という程度の認識ぐらいしかなく、ジュリーがなぜジュリーと呼ばれるのかも分かっていませんでした。 この頃からジュリーも子供に人気が出ましたね。ドリフで志村けんもジュリーの真似をしてました。 ビジュアル面でも男の色気全開でピンクに敗けてません、沢田さんのステージパフォーマンスって「勝手にしやがれ」以降、格段に派手で恰好良くなってる気がするんですけど、、もともとコンサートでは(*) 1974年の「Julie Rock'nTour」でインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山フリーコンサートでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど化粧はステージでは行っていたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組では控えていた(*wiki)らしい。 コスチュームは沢田自身の発案によるもので阿久悠も驚いたという。ビジュアル系の元祖・デヴィッド・ボウイ(30才)のスタイルやパンクファッションを歌謡界に取り入れたのが沢田研二でしょうね。和製という言い方は好きではないけど、ピンクレディーが日本のセックスピストルズならジュリーは日本のボウイの位置に相当するという見方に異論はないです。 歌詞も男言葉と女言葉が交互に入れ替わるハードボイルド小説のような内容で、艶やかで危うい色気のある美男子だからこそできるスタイル、阿久悠が沢田研二という魅力的な個性を通して作りたかった世界は「退廃とか背徳の美」、歌詞の元ネタは映画「カサブランカ」(1942年公開)でのリック(ハンフリーボガード)とイヴォンヌ(マデリーン・ルボー)の有名なやりとりから、映画では酔ってからんでるのはイヴォンヌ(女)のほうで、リック(男)が冷たくあしらってる様子、カサブランカに限らず阿久悠の作品には古い映画から着想を得たと思われるパロディが多いですが、ビデオが普及する以前の時代、ましてネットなどない1977年当時はいつでも観たい映画を観れる手段があるわけではありません。30年以上も前の映画の台詞を覚えているかと言えば誰にでもできる事ではないですね。面白いものを生み出す人って記憶力が抜群なんです。

女:昨夜はどこに?
Where were you last night?

男:そんな昔のことは覚えてない
That's so long ago. I don't remember.

女:今夜会える?
Will I see you tonight?

男:そんな先のことは分らない
I never make plans that for ahead.
阿久悠とジュリーを結びつけたのはTBSのディレクター久世光彦(くぜてるひこ)によるドラマ「悪魔のようなあいつ」(1975年放映)です。70年代初頭、ジュリーの魅力は際立っており、久世も阿久もいつか沢田研二と組んで仕事をしたいとかねてから思っていて恋心のようなところさえあったという、ジュリーをどう妖しく見せるかについても二人は見解が一致していて思案の末「三億円事件の犯人」という役柄に決定、このドラマの主題歌を制作する際に阿久悠が詞を書き、この作曲をなんと6人もの作曲家に発注したらしい(井上忠夫、井上堯之、加瀬邦彦、荒木一郎、都倉俊一、大野克夫)、ドラマの主題歌制作にこの力の入れようですからお金かけてますよね。(阿久悠「夢を食った男たち」より) その中から大野克夫の曲が選ばれた、それが「時の過ぎゆくままに」でありジュリー最大のヒットとなります。(91.6万枚)、映画「カサブランカ」でリックと昔の恋人イルザ(イングリッドバーグマン)が再会するシーンで流れる音楽が「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」で邦題が「時の過ぎゆくままに」、阿久はこのタイトルを頂いて、ジュリー本人から感じとった退廃的ムード、危険な不良性を加味して作詞、大野克夫が曲をつけジュリーに楽曲提供したということです。阿久悠と大野克夫(exスパイダース、この人も天才ですね、ジュリーとはGS時代からの盟友)はゴールデンコンビと呼ばれ、ジュリーの数多くのヒット曲を手掛けていくことになります。阿久は都倉と組んで「ピンクレディー・プロジェクト」、大野と組んで「チーム・ジュリー」に同時並行で参画しており、この辺が阿久悠の偉大さの所以、長らく第一線で活動していたジュリーですがピークはゴールデンコンビ(阿久悠=大野克夫)が作品を手掛けていた時期(だいたい1977年~79年頃)でしょうから。
「憎みきれないろくでなし」とはカサブランカのハンフリー・ボガートではなく、まさに沢田研二のことで、阿久悠が沢田研二から感じ取った魅力、艶やかさ、不良性、を投影・拡大したイメージということ、先の事を考えない享楽的なキャラは「どうにもとまらない / 山本リンダ」の男性版ともいえる。 歌謡の世界でろくでなしといえば、越路吹雪(53才)の「ろくでなし」が想起されます。オリジナルは ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモ / Le Mauvais Garçon、レ・モーベ・ギャルソン、(1964年)で、直訳すると「不良少年」、越路吹雪版は岩谷時子による意訳で男性を女性に変えたもの、当時はろくでなしという言葉がインパクトを与えたらしい、たしかに岩谷先生の言葉選びのセンスは秀逸で、阿久先生もその影響下にあるといえます。阿久によるジュリー版ろくでなしでは、女性を男性に戻して、さらに女性によるつっこみ(ろくでなしでも憎めない)を入れ男女対話形式の構造になっています。 これ以降、曲のコンセプトに沿って煌びやかなコスチュームを合わせていくというジュリーのスタイルは10年近く続く事になります。チャートのトップ10に17週連続でランクインしており、約4ヶ月ものロングヒット、(ジュリー史上売上4位、62.5万枚)、 「秋桜」「人間の証明」に抜かれた後に抜き返す様にも人気の高さが現れていますね。この頃のジュリー、ピンクレディーともなると別次元の勢いがあってほんとテレビ(歌番組)に釘付けで見応えありました。

「憎みきれないろくでなし」


女:昨日はどこにいたの?
男:昨日は昨日でどこかで浮かれて 過ごした筈だが忘れてしまったよ
女:気障な台詞だね

女:明日は会える?
男:明日は明日で楽しいだろうが 余りに遠くて予想も出来ないよ
女:使い古しだね

女:傷つけ合うのが嫌いだからと ずるずるみんなをひきずって 最後にあなたはあなたはどうするどうするつもり 恋に埋もれ死ぬ気でいるの 憎みきれないろくでなし

男:こんなに真面目に愛しているのに 昨日や明日は関係ないだろう
女:きまり文句だね
男:女は不思議だくちづけするより 綺麗な約束ほしがるものなのか
女:破れかぶれだね

女:ひとりも不幸にしたくはないと 天使の気分でいるけれど 最後は疲れて疲れて私の私の胸で 眠るつもりでいるのでしょうね 憎みきれないろくでなし

※確証はないので想像ですが、男女パートを明確にし、冒頭の質問を付与してみました。こうすることで歌詞の情景が見えてきます。

作詞:阿久悠
作曲:大野克夫
編曲:船山基紀
レーベル:ポリドール
定価:600円
発売:1977年9月5日
最高位:3位



俺とお前:
B面の「俺とお前」も名曲なんですよね、当時はシングル盤が600円(LPレコードが2500円)の時代で、1曲が300円としても決して安くはないです。 A面を聞いたら盤面をひっくり返してB面もしっかり聞いてって、そういう聴き方が一般的、 まだラジカセを持っていなかったのでポータブルプレーヤーで繰り返し聴いてました、(確かオートリピート機能というものがあって繰り返し再生できたはず、)、聴くというのは文字通り、座して集中して 聴くんです。 バラ色とはいえない人生だけれど 、なんて歌にしみじみ浸ってた小五の秋、これ今聴いてもいいね。 阿久悠作品によく見られるんですが、 このシングル盤はトータルコンセプト作品になっていて(A面とB面併せて1つの作品)、 A面での男と女のセリフのつづきがB面で展開されます。 女に「ろくでなし」と言われた男が「いい人だと言ってくれ」と 女のもとによりを戻していくストーリーが見えてきます。「最後にあなたはどうするつもり?」への回答(プロポーズ)ですねこれは、、、

「俺とお前」


~続き
男:バラ色とは言えない 人生だけれど
お前とならどうにか 生きていけそうだ
陽はきらめき失い さびれた季節に
こっちへ来い からだが寒くてならない

男:軽い酒だから お前も飲め
二人だけの宴だよ
悪い夢ばかり見ていたけれど
今夜からは見ないだろう
今夜からは見ないだろう

男:若い時の季節はいつでも春だと
誰もがみな言うけど 春などなかった
それでもなお枯れずに 綺麗に咲いてた
お前をもう不幸にさせたりしないよ

男:やっとこの台詞言えそうだよ
暗い春の終り頃
涙流すなよ 嘘になるよ
何もかもが流れるよ
何もかもが流れるよ

男:何もないけれどやさしいから
いいひとだと言ってくれ
俺とお前ならうまく行くよ
洒落た仲ではないけれど
洒落た仲ではないけれど

作詞:阿久悠
作曲:大野克夫
編曲:船山基紀



1977年秋のオリコンヒットチャート
1970年代後半のこの時期はピンクレディー、ジュリー、山口百恵、の3強の時代、この三者が出すシングルは常に注目を集めていて、人気がありました。三強に加えて、解散宣言で人気に拍車がかかったキャンディーズ、中島みゆき、さだまさしなどのシンガーソングライター勢が参戦、それに映画やCMのタイアップによるヒット曲等も加わっていくといった展開、 人間の証明は6週連続2位、秋桜は5種週連続3位 1977年12月5日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに16曲チャートインした。




愛のメモリー:
「愛のメモリー」は百恵ちゃんと三浦友和の共演するグリコアーモンドチョコレートのCMに起用されて大ヒット、今日でも言わずと知れた名曲、(*)歌詞のイメージは万葉集からで、藤原鎌足が詠んだ歌 「われはもや安見児(やすみこ)得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」が基となっている。 元のタイトルは「愛の微笑み」で前年のスペイン・マジョルカ音楽祭での最優秀歌唱賞受賞作、(*wiki) 松崎しげる(27才)はこの曲で大ブレイクして歌謡番組や刑事ドラマなどテレビに頻繁に出演していました(当時から結構面白かった、キャラ変わってません)、 しげるはもともと「君は何をおしえてくれた」「黄色い麦わら帽子」「私の歌」「愛のメモリー」など1970年代の江崎グリコCMソングを担当し、CMソングの帝王と呼ばれていたらしい。 2012年に収録された14曲全てが「愛のメモリー」という「愛のメモリー 35周年アニバーサリーエディション」も発売されています。しかし愛のメモリーでも1位とれないって、、

作詞:たかたかし
作曲・編曲:馬飼野康二
レーベル:ビクターレコード
発売:1977年8月10日
最高位:2位


コスモス街道:
みつばち君は 狩人(かりゅうど)は77年の春に「あずさ2号」でブレイクしたデュオ(加藤兄弟、兄・加藤久仁彦(21才)、弟・加藤高道(17才))で歌うグループで、グループ名称はNo1ヒットを狙うハンター(狩人)からでピンク・レディーと同様、都倉俊一が名付け親、都倉がデビューを手掛け成功に導いた歌手としては、山本リンダ(再デビュー時)、フィンガー5、山口百恵、ピンクレディーらとともに有名、「コスモス街道」は狩人の2枚目のシングル、 歌詞中の「右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中山道」とは昭和初期の詩人・立原道造(たちはら みちぞう)の「夏の旅」における詩「村はづれの歌」からの引用で、場所は北国街道と中山道(国道18号)が分岐する長野県北佐久郡軽井沢町追分に存在する追分宿(おいわけしゅく)の事、 ただそこは「コスモスの道」ではなく、コスモス街道とは長野県佐久市にある内山峡の周囲一帯、9月になると富岡街道(国道254号)に沿ってコスモスが咲き乱れるという、観光案内には1972年(昭和47年)に地元の内山老人クラブが国道沿いにコスモスを植付けたのがきっかけ、とあるが観光客向けに大々的に植栽しコスモス街道として整備されたのは1990年代以降との指摘もある。 狩人の曲には具体的な地名や道路、鉄道路の名称が使用されていて(長野県に集中)、地理や文学の勉強にもなるのでなかなか面白い、彼らのヒット曲を聞くと電車に乗って旅に出たくなります。あずさ2号に乗って行く信州への観光がブームにもなりました。 1977年の秋は2つのコスモスの歌があった事になります。 こういう和風テイストの作品も手掛ける都倉さんの作風って幅広いですね。 都倉作品の特徴であるミュージカルのように異なるメロディーがいくつもパターン変化していく展開はウォンテッドと似てるとも言えます。 茶色のレザーパンツとベストを羽織った狩人(ハンター)を意識したと思われるジャケットの衣装もなかなかイカす、狩人兄が指さす先のターゲットはピンクレディーかそれともジュリーでしょうか。

作詞:竜真知子
作曲・編曲:都倉俊一
レーベル:ワーナー・パイオニア
発売:1977年8月25日
最高位:5位


アン・ドゥ・トロワ:
「アン・ドゥ・トロワ」はフランス語で「1、2、3(Un, deux, trois)」の意味、 キャンディーズの解散宣言(1977年7月17日)をした後の最初のシングルで「やさしい悪魔」と同じ喜多條忠=吉田拓郎による作品、内容的にもこれで終わりなんだなあという哀愁を誘う楽曲ですが、 (*)当初は、作詞・喜多條及び作曲・吉田拓郎らも含めて解散宣言前の事で有ったため、解散し送り出す詩になったのは偶然だった(wiki)とありますが、これ本当でしょうか、たしかに詞の内容は単に「恋にためらわないで」ともうけとれます、、偶然なのだとしたらこれも予言めいた詞です。 この後に「わな」「微笑みがえし」と続き、フィナーレに向かって人気に熱を帯びてきます。解散宣言をしてからのキャンディーズはオーラを纏ったように以前より輝きが増して見えました、それでも最高位7位止まり、この時期は上位陣の人気が不動で キャンディーズですらこの位置です。 アコーディオン、フルートの入っていないバージョン、アン・ドゥ・トロワ パートⅡも存在する。

「アン・ドゥ・トロワ」


あなたの胸に 耳を当てれば
それは真夜中の 時計の響き
こきざみに ときめく心
時のたつのも 忘れなさいと
寒い国から 駈けてきた
恋という名の ピエロが踊る

アン・ドゥ・卜ロワ 踊りましょうか
アン・ドゥ・卜ロワ 炎のように
人は誰でも一度だけ すべてを燃やす夜が来る
アン・ドゥ・トロワ 今がその時ためらわないで
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時ためらわないで

やさしい言葉 聞いた気がする
それが淋しさの 季節の終わり
今日からは あなたと二人
だれも知らない 出発(たびだち)だから
夢の中から 駈けてきた
愛という名の お酒に酔って

アン・ドゥ・卜ロワ 踊りましょうか
アン・ドゥ・卜ロワ 流れるように
人は誰でも一度だけ すべてを燃やす夜が来る
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時もう戻れない
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時もう戻れない
もう戻れない

作詞:喜多條忠
作曲:吉田拓郎
編曲:馬飼野康二
レーベル:CBS Sony
発売:1977年9月21日
最高位:7位


思秋期:
足音もなく行き過ぎた、季節をひとり見送って、はらはら涙あふれる私十八、、、冒頭の七五調の三行詩から一気に聞く者の胸を打つ「思秋期」も「ウォンテッド」や「憎みきれないろくでなし」と同日の9月5日リリースです。 この3曲が同日リリースというのだから尋常じゃない阿久悠の無双ぶり、 思春期の春を秋に変えて思秋期、阿久悠による造語だと思いますが、 阿久悠曰く、(*)これは「聴く歌」、カラオケで歌う歌でもクラブで踊る歌でもない聴く歌、かつてはこのように静かに聴き、自身の思いと重ねてみるという歌もよく売れたのである、 レコーディングの際、高校を卒業したばかり(レコーディングは夏頃)の岩崎宏美(18才)が歌の上手い彼女にしては考えられないミスを繰り返し泣いて歌えなくなってしまった、何度やっても気持ちが異常に昂ぶり彼女は嗚咽するのである、 結局その日のレコーディングは中止になったという、後になって岩崎は阿久に「おじさんの年齢の人が、なぜ私の生活や心情が分かるのか不思議でならなかった」と話したが、泣くほどの激しい思い出については語らなかった(*阿久悠「愛すべき名歌たち」より)とあります、その場に居合わせた飯田ディレクター、作曲家の三木たかしも岩崎につられて泣いていたという、 飯田ディレクターの証言によれば「われわれも泣いていましたが、阿久さんも泣いていた」らしい。

「思秋期」
足音もなく 行き過ぎた
季節をひとり 見送って
はらはら涙 あふれる私 十八

無口だけれど あたたかい
心を持った あのひとの
別れの言葉 抱きしめやがて 十九に

心ゆれる 秋になって 涙もろい私
青春は こわれもの 愛しても傷つき
青春は 忘れもの 過ぎてから気がつく

ふとしたことで はじめての
くちづけをした あのひとは
ごめんといった それっきり 声もかけない

卒業式の 前の日に
心を告げに 来たひとは
私の悩む 顔見て 肩をすぼめた
誰も彼も 通り過ぎて 二度とここへ来ない
青春はこわれもの 愛しても傷つき
青春は忘れもの 過ぎてから気がつく

ひとりで紅茶 のみながら
絵葉書なんか 書いている
お元気ですか みなさん
いつか逢いましょう

無邪気な春の 語らいや
はなやぐ夏の いたずらや
笑いころげた あれこれ思う 秋の日

作詞:阿久悠
作曲・編曲:三木たかし
レーベル:ビクター音楽産業
発売:1977年9月5日
最高位:6位


秋の気配:
この頃のオフコースはブレイク前の時期ですね。 ピンク一色の世相の中、後にビッグアーティストとなるニューミュージック系の面々も水面下で活動していたわけで、 私感ですがピンク台風が去った1979年、ポッカリと空いた子供たちの音楽需要を満たしてくれたグループの一つ、こんなに素敵な音楽をやっているのにブレイクしたのは1979年の「さよなら」から、アリス、YMO(細野晴臣)、RCサクセション、浜田省吾、大瀧詠一なども似たような境遇といえますが、1960年代後半から活動しているアーティストなんですよね。 経済的にも豊かになってきた日本、大型のピンク台風が去って、気づけば 素敵な国産の音楽で溢れかえっていたという、嬉しい状況が80年代を目前にして起きます。歌謡の黄金期の洗礼を受け音楽に成熟した巨大なマーケットができていたということです。逆にいえばピンクレディー現象は音楽業界で燻っていたGSの残党にも光を当てたとも言えます。 シティポップスもこの頃、当時はこれらは総じてニューミュージックというジャンルで括られてました。 「秋の気配」はファンには断トツに人気が高く、 ユーミン(23才)の「海を見ていた午後」とともに横浜のご当地ソングとして80'sの少年少女には有名な曲、 80年代はデートスポットとして「横浜」が爆発的ブームになりますがこんな曲が下地を作ったといえます。 、ヒットはしませんでしたがウォンテッドやわかれうたと同じ男女シチュエーションにおける男性視点の歌なので取り上げてみました、 港町・横浜という歌謡の舞台で小田和正(30才)の歌も歌謡の本流を踏襲しているわけです。物悲しくも美しいメロディとともに 港の見える丘公園のベンチに腰掛けて、どうやってわかれようか思い巡らしている男の歌、わかれを具体的に言葉にして切り出したものが後の「もう、終わりだね、、」で始まる「さよなら」でしょうか、男心と秋の空。一月後に「ウォンテッド」が出たときこの歌の返歌だと思った人もいたとかいないとか

「秋の気配」
あれがあなたの好きな場所
港が見下ろせるこだかい公園
あなたの声が小さくなる
ぼくは黙って 外を見てる

眼を閉じて 息を止めて
さかのぼる ほんのひととき
こんなことは今までなかった
ぼくがあなたから離れてゆく
ぼくがあなたから離れてゆく

たそがれは風を止めて
ちぎれた雲はまたひとつになる
「あのうただけは ほかの誰にも
歌わないでね ただそれだけ」

大いなる河のように
時は流れ 戻るすべもない
こんなことは今までなかった
別れの言葉をさがしてる
別れの言葉をさがしてる

ああ嘘でもいいから
微笑むふりをして

ぼくの精一杯の優しさを
あなたは受けとめる筈もない
こんなことは今までなかった
ぼくがあなたから離れてゆく

作詞・作曲:小田和正
レーベル:EXPRESS
発売:1977年8月5日


宇宙戦艦ヤマト:
そういえばこの頃「宇宙戦艦ヤマト」の劇場版が公開されて凄いブームになったんですよ。これもともとは1974年(1974年10月6日~1975年3月30日)にテレビ放映されたダイジェスト版で(映画用にまとめたもの)、1974年当時も私の周囲(小学校2年生)ではみな熱中してましたから少なくともちびっ子の間では流行っていたはず、何しろプロデューサー・西崎義展(にしざき よしのぶ、42才)による熱量が凄まじく、地球から14万8000光年離れたイスカンダルまで「放射能除去装置」 コスモクリーナーDを受け取りに行かなければならない。という地球滅亡をテーマにしたもので 本格的SFアニメ作品でしたから、1977年にそれを劇場公開するということで大ブームに、 それまでのアニメーション(いわゆる子供向けアニメ)って小学生低学年以下が対象という認識が一般的だったんだけど、「宇宙戦艦ヤマト」から中高生や大人が見ても楽しめるものも作られるようになって、今日に到るまでのアニメブームの火付け役となったのが宇宙戦艦ヤマトなのでした。(1978年の銀河鉄道999、1979年の機動戦士ガンダムにつながっていく)ちなみにささきいさおが歌うアニメ史上最も有名な(ルパン三世のテーマと同じくらい)テーマ曲「宇宙戦艦ヤマト」は発売から3年近く経った1977年9月12日付で最高位14位を記録している。LP盤のサウンドトラック「宇宙戦艦ヤマト」のほうは1977年8月29日から6週連続でLPチャート首位を独走しており、シングルチャート首位のピンクレディーと連動しています。宇宙戦艦ヤマトとピンクレディーで首位制覇とまぁこの時代の日本経済の勢いを象徴したような事象です。

「宇宙戦艦ヤマト」
さらば地球よ 旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト
宇宙の彼方 イスカンダルへ
運命背負い 今とび立つ
必ずここへ 帰って来ると
手をふる人に 笑顔で答え
銀河をはなれ イスカンダルへ
はるばるのぞむ 宇宙戦艦ヤマト

さらば地球よ 愛する人よ 宇宙戦艦ヤマト
地球を救う 使命を帯びて
戦う男 燃えるロマン
誰かがこれを やらねばならぬ
期待の人が 俺たちならば
銀河をはなれ イスカンダルへ
はるばるのぞむ 宇宙戦艦ヤマト

作詞:阿久悠
作曲・編曲:宮川泰
歌:ささきいさお
レーベル:日本コロムビア
発売:1974年11月10日
最高位:14位(1977年9月12日付で)
映画「宇宙戦艦ヤマト(劇場版)」公開:1977年8月6日




ルパン三世:
ルパンアニメ史上最も有名な赤いジャケットのルパン三世PART2(TV第2シリーズ)の放映が開始されたのもこの時期(1977年10月3日~1980年10月6日)で、ルパン第2シリーズはピンクが解散宣言をしてから翌月に終了してますからほとんどピンクレディーの活動期間(1976年8月25日~1981年3月31日)とともにテレビ放映されてました。 ルパンの第2シリーズの企画は1976年6月にはあったそうなので 偶然とはいえウォンテッドが大ヒットしてる最中にウォンテッドの「あいつ」を具現化したような「ルパン三世」が登場するのだからやはり不思議な時代のシンクロ性を感じてしまいます。 第2シリーズは特にスラップスティック色が強く、 胡椒をまき散らすペッパー警部(第47話「女王陛下のズッコケ警部」)、行動する毎にカメレオンアーミーが流れるカメレオン人間(第74話「恐怖のカメレオン人間」)、などピンクレディーネタも満載、 宮崎駿(36才)が制作に携わっていることでもよく知られるところで(第145話「死の翼アルバトロス」第155話「さらば愛しきルパンよ」)、、後のナウシカやラピュタにつながっていく、 同時期のヤマトとともにアニメブームを担っていくことになります。 第2シリーズ時の劇場映画である、宮崎駿・初監督作品「カリオストロの城」(1979年12月公開)での銭形のセリフ「ヤツはとんでもないものを盗んでいきました~」にもウォンテッドの影響が見受けられます。 ルパン三世もウォンテッドの多羅尾伴内も源流はモーリスルブランの「怪盗アルセーヌルパン」であり、時期的にも阿久悠の世界観がつめこまれた「ウォンテッド」の娯楽性が創作の上でヒントを与えたであろうことは想像に難くありません。ウォンテッドの歌詞をクラリス視点に置き換えて読んでみるのも面白いです。 大野雄二(36才)によるアニメ史上最も有名な(宇宙戦艦ヤマトと同じくらい)「ルパン三世のテーマ」もこの赤ジャケルパンのシリーズから始まりました。一般的に「ルパン三世のテーマ'78」と表記されるので誤解されますが発売は1977年の楽曲です。ビュンビュンというシンセによる電子音がやたらかっこいい80'sの音です。

作詞・作曲:大野雄二
レーベル:日本コロムビア
発売:1977年10月25日
最高位:36位




1977年の秋:
1977年の秋はヒット曲が充実してますね。 ピンクレディーが好きでウォンテッドの記事を書いていたつもりが、気が付くと話がとりとめもなくひろがっていく、なんだかこの時代の歌謡すべてが宝物のように思えてきました。 振り返って、この年、小学5年生の私が歌謡に夢中になっていったのも偶然ではなく野坂昭如も指摘してるように歌謡の黄金期(そしてニューミュージックの台頭期)だったんだろうなと思います。77年の秋は他にも、太田裕美「九月の雨」、郷ひろみ&樹木希林 「お化けのロック」、高田みづえ「ビードロ恋細工」、原田真二「てぃーんず ぶるーす」、紙ふうせん「冬が来る前に」等々、、、いい曲がたくさん、とくに秋の風情を感じさせる秋唄の充実は特筆すべきものがあります。初秋から仲秋、晩秋まで揃っている。(コスモスは仲秋) 歌謡界のあまりの充実と熱狂に押される形で、満を持して1978年1月からランキング形式の歌番組「ザ・ベストテン」がスタートします。音楽番組は全盛を迎え、特にニューミュージックの台頭は、さらに才能を持ったアーティストが続々お茶の間に登場して来ることになります。


(※本文中の年齢は1977年の秋(1977/10/1時点)での年齢)
参考サイト:
「人間の証明」で黒人青年役を演じたジョー山中。映画も主題歌も大ヒットを記録!
カーアクション映画
Movie Walker「人間の証明」
終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた
角川映画 CM集
日本占領期のレイプ
米軍占領下での日本女性大量レイプ
占領軍に強姦され妊娠、娼婦に
時代の正体〈164〉「GI」ベビーの実像
岩城滉一は昔覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕されていた
追悼・内田裕也
追悼・萩原健一さん「前略おふくろ様」にまつわる強烈なエピソード
守ってあげたい / 松任谷由実(1981年)
「山口百恵スペシャル」さだまさし談話
山口百恵・ラジオ「夢のあとさき」一覧
NHK特集「山口百恵 激写/篠山紀信」(1979年放映)
山口百恵、自らの歌を語る(1980年)
山口百恵・三浦友和披露宴出席者インタビュー(1980年)
多羅尾伴内(wiki)
多羅尾伴内楽團と三人の多羅尾伴内
阿久悠の履歴書5--上村一夫とビートルズとの出逢い
ピンク・レディー - ウォンテッド [英語バージョン]
ウォンテッド (ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978)/ Yellow Magic Orchestra(1978年)
テクノポリス / Yellow Magic Orchestra(1979年)
「狼なんか怖くない」~阿久悠がピンクレディーの「SOS」を発展させて書いた石野真子のデビュー曲
筒美京平と歌謡曲の黄金時代、都倉俊一が語る
1位獲得週数記録
日本人アーティスト 全米シングルチャート
沢田研二(wiki)
『悪魔のようなあいつ』圧倒的なジュリーの魅力!本人は「ジュリーと沢田研二は違うのや」と言っていた
時の過ぎゆくままに / 沢田研二(1975年)
久世光彦と阿久悠が作った時の過ぎゆくままに
ベルギーの人気歌手アダモが二十歳の時に書いた、ヤケクソ気分の失恋ソング
憎みきれないろくでなし(タバコVersion)
沢田研二といかりやのろくでなし(ドリフ・コント)
沢田研二の憎みきれないろくでなしについて
あの解散宣言の2ヶ月後にリリースされたキャンディーズ「アン・ドゥ・トロワ」
グリコ・アーモンドチョコレート
グリコ
「青春のひと粒」~グリコ チョコレートCMソンググラフティ
立原道造の世界
岩崎宏美「思秋期」(萩田光雄編曲バージョン)
岩崎宏美『思秋期』のレコーディングで涙… 飯田久彦氏
中島みゆき『わかれうた』で必ず議論になる歌詞の部分
中島みゆき / わかれうた(Amazon Music)
オリコン1位獲得週数記録
桜田淳子の第二章は「しあわせ芝居」から
しあわせ芝居 / 桜田淳子(1977年)
西崎義展の狂気』発刊記念 牧村康正氏+山田哲久氏インタビュー
ルパン三世TV第2シリーズ
大野雄二『ルパン三世 PART IV オリジナル・サウンドトラック〜MORE ITALIANO』インタビュー
九月の雨 / 太田裕美(1977年)
お化けのロック / 郷ひろみ&樹木希林(1977年)
ビードロ恋細工 / 高田みづえ(1977年)
てぃーんずぶるーす / 原田真二(1977年)
冬が来る前に/ 紙ふうせん(1977年)

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