ピンクレディー世代といっても、あまりに色んなことが流行りましたので、とても追いきれるようなものではなく、ピンクレディー旋風の真っ只中、1977年(昭和52年)の「秋」の流行歌を取り上げてみたいと思います、 秋は人恋しく誰かのことに想いをよせる季節、 寒くなっていく気温と人肌のぬくもりほしさは密接な関係があるとか、 この年の秋、ジョー山中は「ママ、ドゥユーリメンバー」と唄い、山口百恵は「もう少しあなたの子供でいさせてください」と唄い、ピンクレディーは「あなたなしでいられない」と唄い、ジュリーは「忘れてしまったよ」と唄った。

●人間の証明
(*)日本が占領されて間もなく、米兵による大量レイプが横行し、10日後には彼らはレイプの発生件数を数えるのをやめてしまった。「日本が降伏した後の神奈川県占領下で、最初の10日間のレイプの報告は1336件もあった」(*wiki)
松田優作「ばかやろう!、てめえはそれでも人間か、てめえいったい日本人何人殺せば気が済むんだよ」
芸能界麻薬汚染事件:
1977年8月11日にはジョニー・ヘイワード役のジョー山中(山中明)が大麻取締法違反で逮捕される。山中は佐世保署の追及で内田裕也(同年9月24日検挙)に2グラムと、美川憲一(同年10月13日検挙)に1グラムのハッシッシを渡したことを自供、以上、佐世保コネクションと呼ばれている。 その後、「芸能界薬物汚染事件」は佐世保ルート以外にも広がりを見せ、井上陽水、研ナオコ、内藤やす子、にしきのあきら(金明植)、桑名正博、上田正樹、検挙された芸能関係者は70人に達した。(*wiki)
当時は、ジョーは内田裕也のバンド(フラワートラベリングバンド)のボーカリストを務めるなど活動歴は長いものの、一般的にはほぼ無名といった存在で、 逮捕されて、 ラジオでのオンエアが自粛されたが、前述の角川商法によるテレビCMで頻繁に「人間の証明のテーマ」が流されており大ヒットになります。 この映画と主題歌が大ヒットして日本中の注目を集めている最中、なんと当人は大麻不法所持で「拘留中」という、一般への認知のされ方も衝撃的でした。第一印象がこれなんだから誰もがジョーはヤバい奴だと思うでしょ。勾留は75日間におよび、おそらく10月中旬頃に出所、たしか出所後にはじめて映画も主題歌も大ヒットしていることを知ったとニュースで語っていたような、、釈放された足で映画館へ行くと、風貌からバレてしまいサイン攻めにあったという、 ただこれで強烈なイメージが定着してしまったんじゃないですかね。当時もその後もジョーはテレビ番組に出演することありませんでした。ジョー山中って生涯テレビ出演はないんじゃないかな。
一連の芸能人の逮捕が大麻の不法所持だったのに比べ、岩城さんだけは覚醒剤と拳銃所持ですから、もっとヤバいと思います(笑)、復帰は松田優作の「探偵物語」(第11話、第21話)や、「北の国から(1981年10月~)」の草太兄ちゃん役からでしょう、よく復帰できたもんだと思います。(「北の国から」で草太兄ちゃんが出てきたとき「あ、シャブとピストルの人」と誰もが思ったとか思わなかったとか)、これは優作や脚本家である倉本聰さんの尽力が大きいでしょうね。優作もかつて暴力事件で謹慎していた事がある(1975年7月~1976年3月頃)、倉本に岩城を紹介したのは安藤組の安藤昇
倉本聰「それで撮影(前略おふくろ様第2シリーズ)が終わったとき、安藤さんに“お時間ありますか”って誘われて、渋谷でお茶を飲んだんです。すると“うちに若い衆がひとりいるんですが、会ってやってくれませんか”って。そしてすぐ駆けつけてきたのが岩城(滉一)だった。物おじしないし面白い。安藤さんが“こいつを『前略』に出してやってくれませんか”って言うんで、急遽、最終回にシーンを書き加えて登場させたんです。そしたらたちまちショーケンと衝突した。 面白いやつだから、レギュラーで出したんです。(「あにき」(77年、TBS系))ところがその後、岩城がとっ捕まっちゃった。容疑は覚せい剤取締法違反と銃刀法違反(拳銃所持)。それで岩城は完全に干されるわけですよ。何年かして、フジテレビで『北の国から』をやる時に岩城を出演させることを条件に引き受けた」(倉本聰「ドラマへの遺言」より)
広島:

「人間の証明のテーマ」
Mama, do you remember the old straw hat you gave to me I lost the hat long ago flew to the foggy canyon yeah Mama,I wonder what happened to that old straw hat Falling down the mountain side Out of my reach like your heart Suddenly the wind came up stealing my hat from me yeah Swirling whirling gusts of wind blowing it higher away Mama,that old straw hat was the only one I really loved But we lost it,no one could bring it back Like the life you gave me Suddenly the wind came up stealing my hat from me yeah Swirling whirling gusts of wind blowing it higher away Mama,that old straw hat was the only one I really loved But we lost it,no one could bring it back Like the life you gave me Like the life you gave me |
母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね? ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりずみ)へゆくみちで 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ 母さん、あれは好きな帽子でしたよ 僕はあのときずいぶんくやしかった だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから 母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね 紺の脚絆に手甲をした そして拾おうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね けれど、とうとう駄目だった なにしろ深い谷で、それに草が 背たけぐらい伸びていたんですもの 母さん、ほんとにあの帽子どうなったでしょう? そのとき傍らに咲いていた車百合の花は もうとうに枯れちゃったでしょうね そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ 母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、 あの谷間に、静かに雪がつもっているでしょう 昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と その裏に僕が書いた Y.S という頭文字を 埋めるように、静かに、寂しく |
原詩:西條八十「帽子」より 英訳:角川春樹 英詞:ジョー山中 作曲:大野雄二 レーベル:ワーナーパイオニア 定価:600円 発売:1977年8月10日 最高位:2位(6週) 映画「人間の証明」公開:1977年10月8日 |
●秋桜(コスモス)

制作に非常に時間がかかったという経緯を下表に時系列でまとめてみましたが、 最初にさだまさしに曲作りを依頼したのが1975年ですから、百恵ちゃんが16才の時、さだ自身、グレープ解散などのゴタゴタがあって、さだがソロ作品を発表した後にそれを聞いた百恵ちゃん(17才の時)から再度催促してることから、百恵ちゃんとしてはさだの繊細な詩世界に強く惹かれていたことがわかります。自ら阿木=宇崎に依頼した曲「横須賀ストーリー」(76年6月)の成功で、百恵ちゃん本人による作家指名に自信がついた事もあるでしょう。自分で山口百恵をセルフプロデュースしていくという楽しさに目覚めたのかもしれません。(この辺が普通のアイドルとは違うところ)、 さだもまた百恵ちゃんを分析して非常に繊細で感受性が強い人物と評しているので、繊細で感受性の強い似た者同士 (いわゆるHSP:Highly Sensitive Person)でお互いに超・能力で通じ合うものがあって制作された奇蹟的な楽曲なのだと思います、 さださんは妹、弟、親父など実在するごくごく身近な人物や日常の些細な出来事に非常に多くの事を読み取り、細かく描写できる感性を持っているのでそれに百恵ちゃんが敏感に感応したということなんでしょうね。
制作経緯:
時期 | 証言 |
---|---|
1974年~1975年 | 山口百恵「私がさだまさしさんの存在を知ったのは、「精霊流し」、この歌の頃は「グレープ」としてよくテレビ出ていたんですよ。ほっそりとして、なんていうんだろう線の細い印象でね。まわりの歌い手さんたちとちょっとなんか違うな、、という感じは受けてました。グレープの歌で「精霊流し」とか「朝刊」、とってもあったかい感じがしてね好きでした。~でもあたしに歌える世界では決してないっていうイメージでずっと思っていたんですよね。」 |
1975年8月(?) |
最初の依頼 さだまさし「そろそろまさしの歌を歌わせたいから1曲作ってくれ、と担当プロデューサー(ソニーの酒井政利?)から依頼があった」 山口百恵「8月ぐらいだったんですよね。さださんもその話は受けてくださって、ただ「いつできるかはわかりませんよ」という話だったんですよね、でやっぱりいい歌をうたいたかったし、時間で制約してしまってさださんの世界が壊れてしまったら歌う価値がなくなってしますから「いいです」ということでずっと待ってたんです。」 |
1976年4月 | グレープ解散(さだまさしと吉田正美によるフォークデュオ) |
1976年 | さだまさし、一時業界からはなれ就職活動 |
1976年11月25日 | さだまさし最初のソロアルバム「帰去来」リリース |
1976年11月(?) |
2度目の催促 山口百恵「さだまさしのソロアルバム「帰去来(ききょらい)」を聞いて「あ、歌いたいな」てふっと思ったんです。」それでぜひ歌いたいっていうことでまたお願いした。こんなに繊細でデリケートな世界をあたしなりに、女っていういろいろな様々な感情とかそういうもののなかで。さださんの世界をとらえたらどんな風になるんだろうなって、~それでぜひ歌いたいっていうことでまたお願いしたんです」 |
1977年前半 |
曲作り さだまさし「じゃあ作ると決めたら一体どんな曲を作ろうか。それについてやっぱり山口百恵についてじーっとね、言動その他を本で読んだり表情を見ているうちにね。~素直じゃないのね、所謂画面上において山口百恵を演技しているんじゃないかという気がどうしても未だにするわけです。~とっても繊細な娘で感受性豊かで、ただそれを表にあらわしたりなんかすることに照れを感じる類の人で。~すごく感受性が強くてもそれを、自分が感情を表に出すことに照れを感じる種類の人間って必ずある。彼女はそういう人種だろうと、おそらくたぶん自分に似てるんだろうと、決めたわけですね。 それで、じゃあ本音を吐くときには一体どういうときかというと、それは明らかにこれが本音だとわかって恥ずかしくない相手の前でしか本音を吐かないんだろうなと思ったりした。で、かなり芯の強い人だろうから、うっかりしたことでよろめいたりして見せることはしない人だろう。彼女はやがてだれかの元へ嫁ぐ。あっけなく嫁ぐと思ってたんだけれども。~その時の「結婚前夜」を歌ってやろうと思ったわけです。これは作るときにはかなり山口百恵を意識したんですね。僕の想像の中での山口百恵はこう感じるであろう、こう言うであろう。そういうところからの歌ですね。」 山口百恵「待ち続け・・・待ち続け・・・」 おそらく、さださんは百恵ちゃんを分析しているうちに魅力にハマっていったんだろうと想像します。 |
1977年6月 |
曲完成 山口百恵「初めは「秋桜」ではなく「小春日和」というタイトルで出来てきたんです。初めてこの歌を聞いた時、あたしはどちらかというと~「母」という人の存在に対してとても大きなものを感じているタイプの人間なんで~ものすごく感動しちゃってですね。~この歌はもう自分の中のひとつの「私小説」感覚でね。自分のドキュメントっていう感覚で歌いたいなって思った歌なんですけどね」 「秋桜」が百恵さん(18才)のもとに届けられた直後、さだまさし(25才)は電話で話した。「百恵ちゃんにはピンとこない曲でしょ」と言うと、「はい。実感が湧かないんです。だから上手に歌えないんです。すいません」。素直な返事だったと感じた。そこで「好きなように変えて歌ってくれていいんだよ」と伝えた後、「なぜ、私があなたにこの歌を作ったのか、その理由が分かる日が早く来ればいいね」と付け加えた。 |
1977年6月~8月 | 「秋桜」レコーディング、 「小春日和」というタイトルだったが、曲を聴いたCBSソニーの酒井政利プロデューサーの提案で「秋桜」に変更となった。 |
1977年10月1日 | 「秋桜」リリース、オリコンチャート最高位3位の大ヒット(5週連続)、50万枚近いセールスを記録 |
1979年10月20日 | 三浦との恋人宣言を突如発表 |
1980年10月5日 |
山口百恵引退 結婚を期に引退する日本武道館でのラスト・コンサート、「"ありがとう"という言葉をどれだけ重ねても、私の気持ちには追い付けないと思います。私のわがまま、許してくれてありがとう、幸せになります」そう言ってステージにそっとマイクを置いてファンに別れを告げたパフォーマンスの直後、電話で次のメッセージをさだに送っている。 「さださんがこの歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。本当に、本当にありがとうございました。山口百恵」 同日、大阪市内のホールでコンサートを終えたさだまさしが定宿のホテルに戻ると、フロントマンからメッセージを渡された。そこには「本当に、本当に」と「本当に」が2度繰り返されていた。これを読んださだは「もう2度と彼女が(芸能界に)帰ってくることはないな」と感じたという。 |
1980年11月18日 | 「秋桜」で歌われる小春日和の日、結婚前夜の娘と母 |
1980年11月19日 | 山口百恵、三浦友和と結婚 |
1993年 |
さだまさしのデビュー20周年によせて 「秋桜を歌えたということ、そして何よりさださんの世界に触れられたということは、とても大切な私のたからものです。三浦百恵」 |
言霊の歌:
縁側での母と娘の幻影はさだが山口百恵を通して視た白日夢、夢を文字で書き起こしたものが歌詞となり、山口が歌う事によって3年後に現実のものとなるという、「この人は芸能界にあまり長くいたくないのだろう。スターになったがために責任感でここにいるけど、早くやめると幸せなんだろうなあ。やめればいいのに」というさだの思いに端を発して書かれた「山口百恵が嫁ぐ日の歌」は来たるべき未来予知(プレコグニション、英:Precognition)を書き留めたものであり「歌うことそのままが即ち実現する」言霊の歌、 昔から日本では言葉には呪力があると考えられてきた。言霊ともいわれ、言葉に宿る霊力が、発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられてきた。
百恵ちゃん自身にも予知能力がある事は著書「蒼い時」でも触れられている。 「私の場合、それが現実に的中したということが少なくない。横須賀に住んでいた頃、母に頼まれ使いに出た帰り道、何気なくドブ川のふちによって歩いていた。右側のサンダルをひっかけたわけでもないのに、はずみで川の中に落とした。泣きそうな私を見て、通りすがりの中年男性が、川の中にはいってサンダルを拾ってくれた、ただそれだけの出来事を、事が起こる数分前に私の頭は画像としてとらえていた。・・・ しだいに、その小さな予知能力は自分の人生においても決定権をもつほどになってきていた。私は人生の一大事を決定するときも、この直感というものを信じた。(山口百恵著「蒼い時」より)」、つまり一切の仕事を辞めて、結婚することを選んだのも百恵さんが自身を信じる事に依るもの。百恵ちゃんはそうやって誰にもたよらず自分自身で物事を捉え生きてきた。中学2年でスター誕生に応募した際も「あ、私は歌手になるんだ」という強い予感(確信)があったといいます。
さだの言う「なぜ、私があなたにこの歌を作ったのか、その理由が分かる日が早く来ればいいね」とは 歌詞の内容が現実のものとなった時に作った理由がわかるのだから その理由がわかる日がくるといいね(やがて嫁いでいく日があなたに訪れて幸せに) という意、その3年後の返答である百恵ちゃんの「この歌を作ってくれた意味がやっと分かる日が来ました。」とは、私が望む未来(秋桜の歌詞)が本当に訪れその通りになる日が来ました。ということです。 さださんは人の気持ちをよくよく見ていて、根はあったかさと強さを持った人ですね。歌詞によく表れています。
第19回日本レコード大賞で、山口百恵は歌唱賞を、さだまさしは「秋桜」と「雨宿り」で西条八十賞(後の作詩賞)を受賞した。
「秋桜」
(映像は「夜のヒットスタジオ」より、 1977.11.14)
淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない 陽溜まりに揺れている
この頃 涙脆くなった母が
庭先でひとつ咳をする
縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話 くりかえす
独り言みたいに 小さな声で
こんな小春日和の 穏やかな日は
あなたの優しさが 浸みて来る
明日嫁ぐ私に 苦労はしても
笑い話に時が変えるよ 心配いらないと笑った
あれこれと思い出をたどったら
いつの日も ひとりではなかったと
今更ながら我儘(わがまま)な私に
唇かんでいます
明日への荷造りに手を借りて
しばらくは楽し気にいたけれど
突然涙こぼし 元気でと
何度も何度もくりかえす母
ありがとうの言葉を かみしめながら
生きてみます私なりに
こんな小春日和の 穏やかな日は
もう少しあなたの 子供でいさせてください
作詞・作曲:さだまさし
編曲:萩田光雄
レーベル:CBS Sony
定価:600円
発売:1977年10月1日
最高位:3位(5週)
山口百恵論:
子供の頃の私(10才)には正直その魅力はよくわかりませんでした、もちろんいつもテレビに出ていて身近で圧倒的な存在感を示し、国民的アイドルではあったんですが周囲にまる子のような百恵ちゃんの熱烈なファンだという子もいなかったな、当時の私から見ても落ち着いていて大人しい、時に迫力があり過ぎて近寄り難い、という印象は普通の子供からすれば誰もが感じていたんじゃないかな、私的に「ひと夏の経験」で神秘的で鮮烈な印象を受けたのは確かなんですが、それに続くヒット曲の仰々しいサウンドや、決定的だったのが重苦しいテーマの大映ドラマ「赤いシリーズ」が全然受け付けなかったというのがあります(主婦層には人気で高視聴率だったみたいだけど)、大人な男女間のやりとりも子供にはピンと来ないし、「横須賀ストーリー」の頃になるともうピンクレディーが登場してくるし、 よく比較されますが、70年代だと桜田淳子さんのほうがアイドルとしては正統派、子供受けもいい、(似たようなことはピンクレディーでもミー派とケイ派で比率が7:3くらいだったことにも言えるんだけど、)、 なので百恵ちゃん(18才)の熱烈なファン層となると、どの辺りになるのかなかなか掴み難いのですが、1つに当時の大人達の評価が一様に高かったというのがあります。まぁガキにはわからないということです、そういう意味じゃピンクレディー(子供)、キャンディーズ(学生)、山口百恵(大人)と市場は綺麗に分かれていたということになります、これに八代亜紀(中高年)を加えてもいい、この4者のメインターゲットとなる市場区分があってキャンディーズが子供を、百恵ちゃんが中高年層を取り込もうとしていた、という感じ、だからといってピンクやキャンの音楽が子供向けかといえば、そういう事ではなく音楽への向き合い方が世代間で違うということなんだろうけど、、 もともと音楽をレコードで楽しむという娯楽は1960年代ころだと大人向けの娯楽で 、1970年代は市場を中学生高校生や子供層までへと拡大化していった時期でもありますが、百恵ちゃんはあくまで大人の鑑賞にたえ得る歌謡の保守本流(本物)を追求していたということかな、 百恵ちゃんは当時の文化人たちがこぞって取り上げ、評論していたのをよく覚えています。 それも昭和の一流のプロのオジサンたち、 写真家・篠山紀信(36才)、脚本家・倉本聰(42才)、映画監督・大林亘彦(39才)、作曲家・都倉俊一(29才)、作詞家・阿久悠(40才)、、、等々が、 まるで一級品の芸術を鑑賞するかの如く山口百恵という少女を称賛していました。天才と言われたこれらの方々に 其々の立場で山口百恵評論というものが必ず存在するので興味があれば読んでみるのもよいでしょう。 「火垂るの墓」の作家・野坂昭如(46才)(のさか あきゆき)もそんな百恵信者の一人です。
野坂昭如「戦後、なかなかスターってのは出にくかったんだけど、ようやく出てきたって感じがあるわけで、まぁ、かこつけるようだけど、高度経済成長の時には確かに使い捨てみたいなスターがたくさん出てきて、その成長に陰りが出てもっと違う価値を求め始めたときに山口百恵が出てきたっていうふうな、あの方は日本の伝統的なスターの要素を備えている、つまり 、ちょっと翳りがあって、スターには共通する非常にふてぶてしいとこがある、今の女性の中にたいていその 流行とか時代の風潮のなかに埋没してしまってる個性というものがある、個性はけして誰かが企んで作ったんじゃなくて おのずと自分自身の個性が出ざるをえないという、そういう面をあの人は持っていると思うんですね。 スターっていうのは、これは日本だけに通用するっていうもんじゃなくて、これはあの、もう 山口さんていうのは世界的に通用する。っていうか、 例えば顔立ちだけみて美人であるとか美人じゃないとかそういうことじゃなくて、 あの人が持ってる雰囲気というのは 仮にシャネル・・・・歩いてても、(シャネル本店はパリのカンボン通り) ローマのベニス通りを歩いてても(ローマにあるのはヴェネツィア広場) あるいは五番街(マンハッタン)歩いていても、たぶん外人が振り向いて、なんかこう気にするような、 そういうムードというかアトモスフィア(雰囲気)というか、そういうものを持ってる人だと思うし、 僕自身、自分自身がやがて先になって今の時代を振り返る時に、 山口百恵というスターの存在と、かこつけて、振り返るだろう。 スターとかヒットメロディというのは、 タイムマシンみたいな役割を将来に向けて行うことがあって 山口百恵のある種の歌とか、彼女の個性とか、そういうものとひきかえて、 たとえば1970年代の後半から80年代にかけて僕らは懐かしく思い出すんじゃないだろうかと、 たぶんその時に、 今よりもっと時代は悪くなっているだろうから、大変こう、あの頃は良かったという形でもって思い出すことになる、と僕は予測しますけどね。最後の黄金時代を飾る人みたいな気がするわけ。」(「山口百恵 激写/篠山紀信(1979年)」より)
●ウォンテッド(指名手配)
多羅尾伴内(たらおばんない)とは:

多羅尾伴内は 大見得の元祖でキューティーハニー(1972年)などでも流用されています。「七つの顔」での口上→「ある時は多羅尾伴内、ある時は奇術師、ある時は老巡査、ある時は新聞記者、またある時は手相見、片目の運転手、しかして実体は、藤村大造だ」 ちなみにキューティーハニー1作目→「ある時は花形レーサー、またある時はスチュワーデス、そしてモデル、歌い手、カメラマン、だが実体は、愛の戦士キューティーハニーさ」 片岡千恵蔵版の多羅尾伴内は11作品作られて7変化の内容も作品ごとに異なっている。
ウォンテッドのあいつと多羅尾伴内シリーズの変装人物の対比:
No. | ウォンテッドのあいつ | 多羅尾伴内の変装 |
---|---|---|
1 | 謎の運転手 | 片目の運転手+謎の東洋人 | 2 | アラブの大富豪 | 異国の大富豪、アラブは阿久悠の趣味 | 3 | ニヒルな渡り鳥 | 該当なし、「ギターを持った渡り鳥」(1959)の小林旭 | 4 | キザな若社長 | キザな紳士、若社長とはT&Cの相馬一比古(そうま かずひこ)でしょうか? | 5 | 真面目な医学生 | 該当なし、多羅尾伴内の変装に学生は出てこない、ピンクのファン層向け? | 6 | 洒落た音楽家 | 該当なし、真っ赤なフェアレディZに長身を折りたたむように乗り込み、鮮烈な印象を持った(阿久悠談)という都倉俊一のことでしょう |
翌1978年にはピンクレディーのウォンテッドに触発された形で小林旭版の多羅尾伴内(東映、1978年4月)が公開され、この作品では「流しの歌い手」が登場し、主演が小林旭なので自らセルフパロディのような「ニヒルな渡り鳥」スタイルを披露、小林旭版は八代亜紀やアンルイス、さらにピンクレディーみたいな二人組のアイドル(キャッツ★アイ)も登場し歌謡マニアには堪えられない内容となっています。 キャッツ★アイは1977年に「アバンチュール」でデビューしたピンクレディーのフォロワー的アイドルで、ピンクのセクシー路線に特化したようなアイドル、ピンクのフォロワーは他にもたくさんいたようです。アパッチ、GAL、、
おもちゃ箱をひっくり返したような世界:

「ウォンテッド」
私の胸の鍵を こわして逃げて行った あいつは何処にいるのか 盗んだ心返せ Wanted Wanted あんちくしょうに逢ったら 今度はただで置かない 私の腕にかかえて くちづけ責めにあわせる 恋泥棒の手配を くぐって生きて行けない つかまる前にこっそり 自首して来たらどうなの ある時謎の運転手 ある時アラブの大富豪 ある時ニヒルな渡り鳥 あいつはあいつは大変装 好きよ 好きよ こんなに好きよ もうあなたなしでいられないほどよ 空っぽよ心はうつろよ何もないわ あの日あなたが 盗んだのよ I want you baby, I want you baby Wanted Wanted 両手に鉄の手錠を 足には重い鎖を 私のそばにいつでも つないでおいてあげるわ あんちくしょうの噂を きいたらすぐに教えて 地球の果ての町でも 逮捕に向うつもりよ ある時気障な若社長 ある時真面目な医学生 ある時しゃれた音楽家 あいつはあいつは大変装 |
There's a man who's stolen my heart away I'm gonna get you and make you pay You're on the loose but you won't be for long Gonna get you back to where you belong Wanted! Wanted! Why don't you confess And say that you love me too Surrender to me before I catch up with you 'Cause I'm out to take you,Take you into my arms Hold you and kiss you so we won't ever part I'll get the clues and then I'm gonna pursue Search the world through Until I catch up with you You don't have a chance 'cause you're the most wanted man Wanted for loving me like no other man Please come back, back to me Oh can't you see,You're hurtin' me You know it's not just a game I'm playin' When I say to you, I want you Why did you have to go, And leave me all alone Do you think it's fair, When you know I care I want to be the one, The one you really want I want you baby I want you baby Wanted! Wanted! |
作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一 ベース:金田一昌吾 ドラム:宗谷春男 キーボード:井上鑑 ギター:津村泰彦 パーカッション:川原直美 ※演奏はピンクレディーのこの時期の主なレコーディングメンバーなので確証はないです。 レーベル:ビクター音楽産業 定価:600円 発売:1977年9月5日 最高位:1位(12週) |

●憎みきれないろくでなし

女:昨夜はどこに?
Where were you last night?
男:そんな昔のことは覚えてない
That's so long ago. I don't remember.
女:今夜会える?
Will I see you tonight?
男:そんな先のことは分らない
I never make plans that for ahead.


「憎みきれないろくでなし」とはカサブランカのハンフリー・ボガートではなく、まさに沢田研二のことで、阿久悠が沢田研二から感じ取った魅力、艶やかさ、不良性、を投影・拡大したイメージということ、先の事を考えない享楽的なキャラは「どうにもとまらない / 山本リンダ」の男性版ともいえる。 歌謡の世界でろくでなしといえば、越路吹雪(53才)の「ろくでなし」が想起されます。オリジナルは ベルギーの歌手サルヴァトール・アダモ / Le Mauvais Garçon、レ・モーベ・ギャルソン、(1964年)で、直訳すると「不良少年」、越路吹雪版は岩谷時子による意訳で男性を女性に変えたもの、当時はろくでなしという言葉がインパクトを与えたらしい、たしかに岩谷先生の言葉選びのセンスは秀逸で、阿久先生もその影響下にあるといえます。阿久によるジュリー版ろくでなしでは、女性を男性に戻して、さらに女性によるつっこみ(ろくでなしでも憎めない)を入れ男女対話形式の構造になっています。 これ以降、曲のコンセプトに沿って煌びやかなコスチュームを合わせていくというジュリーのスタイルは10年近く続く事になります。チャートのトップ10に17週連続でランクインしており、約4ヶ月ものロングヒット、(ジュリー史上売上4位、62.5万枚)、 「秋桜」「人間の証明」に抜かれた後に抜き返す様にも人気の高さが現れていますね。この頃のジュリー、ピンクレディーともなると別次元の勢いがあってほんとテレビ(歌番組)に釘付けで見応えありました。
「憎みきれないろくでなし」
女:昨日はどこにいたの?
男:昨日は昨日でどこかで浮かれて 過ごした筈だが忘れてしまったよ
女:気障な台詞だね
女:明日は会える?
男:明日は明日で楽しいだろうが 余りに遠くて予想も出来ないよ
女:使い古しだね
女:傷つけ合うのが嫌いだからと ずるずるみんなをひきずって 最後にあなたはあなたはどうするどうするつもり 恋に埋もれ死ぬ気でいるの 憎みきれないろくでなし
男:こんなに真面目に愛しているのに 昨日や明日は関係ないだろう
女:きまり文句だね
男:女は不思議だくちづけするより 綺麗な約束ほしがるものなのか
女:破れかぶれだね
女:ひとりも不幸にしたくはないと 天使の気分でいるけれど 最後は疲れて疲れて私の私の胸で 眠るつもりでいるのでしょうね 憎みきれないろくでなし
※確証はないので想像ですが、男女パートを明確にし、冒頭の質問を付与してみました。こうすることで歌詞の情景が見えてきます。
作詞:阿久悠
作曲:大野克夫
編曲:船山基紀
レーベル:ポリドール
定価:600円
発売:1977年9月5日
最高位:3位

俺とお前:
B面の「俺とお前」も名曲なんですよね、当時はシングル盤が600円(LPレコードが2500円)の時代で、1曲が300円としても決して安くはないです。 A面を聞いたら盤面をひっくり返してB面もしっかり聞いてって、そういう聴き方が一般的、 まだラジカセを持っていなかったのでポータブルプレーヤーで繰り返し聴いてました、(確かオートリピート機能というものがあって繰り返し再生できたはず、)、聴くというのは文字通り、座して集中して 聴くんです。 バラ色とはいえない人生だけれど 、なんて歌にしみじみ浸ってた小五の秋、これ今聴いてもいいね。 阿久悠作品によく見られるんですが、 このシングル盤はトータルコンセプト作品になっていて(A面とB面併せて1つの作品)、 A面での男と女のセリフのつづきがB面で展開されます。 女に「ろくでなし」と言われた男が「いい人だと言ってくれ」と 女のもとによりを戻していくストーリーが見えてきます。「最後にあなたはどうするつもり?」への回答(プロポーズ)ですねこれは、、、
「俺とお前」
~続き
男:バラ色とは言えない 人生だけれど
お前とならどうにか 生きていけそうだ
陽はきらめき失い さびれた季節に
こっちへ来い からだが寒くてならない
男:軽い酒だから お前も飲め
二人だけの宴だよ
悪い夢ばかり見ていたけれど
今夜からは見ないだろう
今夜からは見ないだろう
男:若い時の季節はいつでも春だと
誰もがみな言うけど 春などなかった
それでもなお枯れずに 綺麗に咲いてた
お前をもう不幸にさせたりしないよ
男:やっとこの台詞言えそうだよ
暗い春の終り頃
涙流すなよ 嘘になるよ
何もかもが流れるよ
何もかもが流れるよ
男:何もないけれどやさしいから
いいひとだと言ってくれ
俺とお前ならうまく行くよ
洒落た仲ではないけれど
洒落た仲ではないけれど
作詞:阿久悠
作曲:大野克夫
編曲:船山基紀
●1977年秋のオリコンヒットチャート
1970年代後半のこの時期はピンクレディー、ジュリー、山口百恵、の3強の時代、この三者が出すシングルは常に注目を集めていて、人気がありました。三強に加えて、解散宣言で人気に拍車がかかったキャンディーズ、中島みゆき、さだまさしなどのシンガーソングライター勢が参戦、それに映画やCMのタイアップによるヒット曲等も加わっていくといった展開、 人間の証明は6週連続2位、秋桜は5種週連続3位 1977年12月5日付けのオリコンシングルチャートでは、阿久悠作詞の楽曲が100位までに16曲チャートインした。
愛のメモリー:
作詞:たかたかし
作曲・編曲:馬飼野康二
レーベル:ビクターレコード
発売:1977年8月10日
最高位:2位
コスモス街道:
作詞:竜真知子
作曲・編曲:都倉俊一
レーベル:ワーナー・パイオニア
発売:1977年8月25日
最高位:5位
アン・ドゥ・トロワ:
「アン・ドゥ・トロワ」
あなたの胸に 耳を当てれば
それは真夜中の 時計の響き
こきざみに ときめく心
時のたつのも 忘れなさいと
寒い国から 駈けてきた
恋という名の ピエロが踊る
アン・ドゥ・卜ロワ 踊りましょうか
アン・ドゥ・卜ロワ 炎のように
人は誰でも一度だけ すべてを燃やす夜が来る
アン・ドゥ・トロワ 今がその時ためらわないで
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時ためらわないで
やさしい言葉 聞いた気がする
それが淋しさの 季節の終わり
今日からは あなたと二人
だれも知らない 出発(たびだち)だから
夢の中から 駈けてきた
愛という名の お酒に酔って
アン・ドゥ・卜ロワ 踊りましょうか
アン・ドゥ・卜ロワ 流れるように
人は誰でも一度だけ すべてを燃やす夜が来る
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時もう戻れない
アン・ドゥ・卜ロワ 今がその時もう戻れない
もう戻れない
作詞:喜多條忠
作曲:吉田拓郎
編曲:馬飼野康二
レーベル:CBS Sony
発売:1977年9月21日
最高位:7位
思秋期:

「思秋期」
足音もなく 行き過ぎた
季節をひとり 見送って
はらはら涙 あふれる私 十八
無口だけれど あたたかい
心を持った あのひとの
別れの言葉 抱きしめやがて 十九に
心ゆれる 秋になって 涙もろい私
青春は こわれもの 愛しても傷つき
青春は 忘れもの 過ぎてから気がつく
ふとしたことで はじめての
くちづけをした あのひとは
ごめんといった それっきり 声もかけない
卒業式の 前の日に
心を告げに 来たひとは
私の悩む 顔見て 肩をすぼめた
誰も彼も 通り過ぎて 二度とここへ来ない
青春はこわれもの 愛しても傷つき
青春は忘れもの 過ぎてから気がつく
ひとりで紅茶 のみながら
絵葉書なんか 書いている
お元気ですか みなさん
いつか逢いましょう
無邪気な春の 語らいや
はなやぐ夏の いたずらや
笑いころげた あれこれ思う 秋の日
作詞:阿久悠
作曲・編曲:三木たかし
レーベル:ビクター音楽産業
発売:1977年9月5日
最高位:6位
秋の気配:

「秋の気配」
あれがあなたの好きな場所
港が見下ろせるこだかい公園
あなたの声が小さくなる
ぼくは黙って 外を見てる
眼を閉じて 息を止めて
さかのぼる ほんのひととき
こんなことは今までなかった
ぼくがあなたから離れてゆく
ぼくがあなたから離れてゆく
たそがれは風を止めて
ちぎれた雲はまたひとつになる
「あのうただけは ほかの誰にも
歌わないでね ただそれだけ」
大いなる河のように
時は流れ 戻るすべもない
こんなことは今までなかった
別れの言葉をさがしてる
別れの言葉をさがしてる
ああ嘘でもいいから
微笑むふりをして
ぼくの精一杯の優しさを
あなたは受けとめる筈もない
こんなことは今までなかった
ぼくがあなたから離れてゆく
作詞・作曲:小田和正
レーベル:EXPRESS
発売:1977年8月5日
宇宙戦艦ヤマト:

「宇宙戦艦ヤマト」
さらば地球よ 旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト
宇宙の彼方 イスカンダルへ
運命背負い 今とび立つ
必ずここへ 帰って来ると
手をふる人に 笑顔で答え
銀河をはなれ イスカンダルへ
はるばるのぞむ 宇宙戦艦ヤマト
さらば地球よ 愛する人よ 宇宙戦艦ヤマト
地球を救う 使命を帯びて
戦う男 燃えるロマン
誰かがこれを やらねばならぬ
期待の人が 俺たちならば
銀河をはなれ イスカンダルへ
はるばるのぞむ 宇宙戦艦ヤマト
作詞:阿久悠
作曲・編曲:宮川泰
歌:ささきいさお
レーベル:日本コロムビア
発売:1974年11月10日
最高位:14位(1977年9月12日付で)
映画「宇宙戦艦ヤマト(劇場版)」公開:1977年8月6日

ルパン三世:

作詞・作曲:大野雄二
レーベル:日本コロムビア
発売:1977年10月25日
最高位:36位
1977年の秋:
1977年の秋はヒット曲が充実してますね。 ピンクレディーが好きでウォンテッドの記事を書いていたつもりが、気が付くと話がとりとめもなくひろがっていく、なんだかこの時代の歌謡すべてが宝物のように思えてきました。 振り返って、この年、小学5年生の私が歌謡に夢中になっていったのも偶然ではなく野坂昭如も指摘してるように歌謡の黄金期(そしてニューミュージックの台頭期)だったんだろうなと思います。77年の秋は他にも、太田裕美「九月の雨」、郷ひろみ&樹木希林 「お化けのロック」、高田みづえ「ビードロ恋細工」、原田真二「てぃーんず ぶるーす」、紙ふうせん「冬が来る前に」等々、、、いい曲がたくさん、とくに秋の風情を感じさせる秋唄の充実は特筆すべきものがあります。初秋から仲秋、晩秋まで揃っている。(コスモスは仲秋) 歌謡界のあまりの充実と熱狂に押される形で、満を持して1978年1月からランキング形式の歌番組「ザ・ベストテン」がスタートします。音楽番組は全盛を迎え、特にニューミュージックの台頭は、さらに才能を持ったアーティストが続々お茶の間に登場して来ることになります。
(※本文中の年齢は1977年の秋(1977/10/1時点)での年齢)
参考サイト:
「人間の証明」で黒人青年役を演じたジョー山中。映画も主題歌も大ヒットを記録!
カーアクション映画
Movie Walker「人間の証明」
終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた
角川映画 CM集
日本占領期のレイプ
米軍占領下での日本女性大量レイプ
占領軍に強姦され妊娠、娼婦に
時代の正体〈164〉「GI」ベビーの実像
岩城滉一は昔覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕されていた
追悼・内田裕也
追悼・萩原健一さん「前略おふくろ様」にまつわる強烈なエピソード
守ってあげたい / 松任谷由実(1981年)
「山口百恵スペシャル」さだまさし談話
山口百恵・ラジオ「夢のあとさき」一覧
NHK特集「山口百恵 激写/篠山紀信」(1979年放映)
山口百恵、自らの歌を語る(1980年)
山口百恵・三浦友和披露宴出席者インタビュー(1980年)
多羅尾伴内(wiki)
多羅尾伴内楽團と三人の多羅尾伴内
阿久悠の履歴書5--上村一夫とビートルズとの出逢い
ピンク・レディー - ウォンテッド [英語バージョン]
ウォンテッド (ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978)/ Yellow Magic Orchestra(1978年)
テクノポリス / Yellow Magic Orchestra(1979年)
「狼なんか怖くない」~阿久悠がピンクレディーの「SOS」を発展させて書いた石野真子のデビュー曲
筒美京平と歌謡曲の黄金時代、都倉俊一が語る
1位獲得週数記録
日本人アーティスト 全米シングルチャート
沢田研二(wiki)
『悪魔のようなあいつ』圧倒的なジュリーの魅力!本人は「ジュリーと沢田研二は違うのや」と言っていた
時の過ぎゆくままに / 沢田研二(1975年)
久世光彦と阿久悠が作った時の過ぎゆくままに
ベルギーの人気歌手アダモが二十歳の時に書いた、ヤケクソ気分の失恋ソング
憎みきれないろくでなし(タバコVersion)
沢田研二といかりやのろくでなし(ドリフ・コント)
沢田研二の憎みきれないろくでなしについて
あの解散宣言の2ヶ月後にリリースされたキャンディーズ「アン・ドゥ・トロワ」
グリコ・アーモンドチョコレート
グリコ
「青春のひと粒」~グリコ チョコレートCMソンググラフティ
立原道造の世界
岩崎宏美「思秋期」(萩田光雄編曲バージョン)
岩崎宏美『思秋期』のレコーディングで涙… 飯田久彦氏
中島みゆき『わかれうた』で必ず議論になる歌詞の部分
中島みゆき / わかれうた(Amazon Music)
オリコン1位獲得週数記録
桜田淳子の第二章は「しあわせ芝居」から
しあわせ芝居 / 桜田淳子(1977年)
西崎義展の狂気』発刊記念 牧村康正氏+山田哲久氏インタビュー
ルパン三世TV第2シリーズ
大野雄二『ルパン三世 PART IV オリジナル・サウンドトラック〜MORE ITALIANO』インタビュー
九月の雨 / 太田裕美(1977年)
お化けのロック / 郷ひろみ&樹木希林(1977年)
ビードロ恋細工 / 高田みづえ(1977年)
てぃーんずぶるーす / 原田真二(1977年)
冬が来る前に/ 紙ふうせん(1977年)