2021/05/18

god save the pink lady

「ピンク・レディー万歳」
ピンクレディーの事を日本のセックスピストルズだと誰かが言っていた記憶があるけどなるほどなと思った。 1977年(昭和52年)は不思議な年で、日本列島に突如としてピンクレディー旋風(Pink)が吹き荒れた。同じく英国ではパンクロックムーブメントが発生(Punk)、時が経ってあれは一体何だったんだろう?と振り返って見ると両者はいくつかの近似性を持っている事に気づく。
・性をモチーフにした卑猥とも受け取れるグループ名、セックスピストルズ(性銃)は男性のアソコ、ピンクは英国のスラングで女性のアソコの意味もある。
・7のゾロ目の年に登場した他に比較になる存在がない、唯一無二の存在
・神がかり的な楽曲が10曲(ペッパー警部から~カメレオンアーミーまで)、ピストルズ唯一のアルバムである「勝手にしやがれ」は11曲
・短い活動期間に強烈なインパクトを残して解散、登場前と登場後でそれまでの歌謡史(ロック史)を一変させた。
他にも再結成時期(1996年)までいっしょだったり探せば色々


歌謡ポップス史上、偉大な国民的歌手は数あれど、後にも先にもピンクのような二人組はいない。
しいてあげるなら1996年デビューのPUFFYが近いが市場規模が全然違う、(PUFFYにはピンクのオマージュ的な要素もある。)ピンクが持つ年端もいかない子供たちを強力にひきつける磁力、魅力というのは言葉ではなかなか説明つかない。(そんなアイドルいます?)
他に類を見ないスターというに相応しく、限られた時間を与えられた、どこか遠い星からやってきた存在のように受け手には映る。日本の歌謡界(誰もが情熱を持っていた時代)の金字塔だと思う。

ピストルズとは国もジャンルも違うので比較するものでもないが、
かたや不況にあえぐ英国で「おまえらに未来はない」と若者を愕然とさせたピストルズに対し、
ちびっ子からお年寄りまで(森進一も)歌って踊らせて日本中を気持ちよく楽しく元気にしてくれたんだからピンク最高じゃないの、


嗚呼桃色天国日本



娘心は阿久悠が書く
ピンクはミーとケイに加えて作詞家:阿久悠、作曲家:都倉俊一、振付師:土居甫、ビクターのディレクター:飯田久彦、などからなるプロジェクトチームでもある。

目指したものは?:
飯田ディレクターの念頭にはザ・ピーナッツがありスター誕生で二人を発掘、そしてブレーンとして阿久悠、都倉俊一を呼ぶ。 阿久と都倉のコンビといえばフィンガー5、山本リンダなどピンクのプロトとも言うべきダンサブルなビートの効いたヒットを量産していたので、この二人を召喚したことでピンクの方向性がほぼ決定、さらに土居による躍動感ある振付によってスタイルが確立する。

初期イメージ:
ケイ「歌って踊れてとにかくビートの効いた歌を得意としたい」
飯田「ザ・ピーナッツみたいな歌って踊れるデュエット」
都倉「ディズニー映画じゃないけど、なんかファンタジーな世界を作ろうじゃないかという遊び心」
阿久「もしかしたらゼロになって恥をかくかもしれないけど、100に化ける可能性のある大胆なもの」
土居「アイドル系の顔じゃなくて背もやや高めで足も太くて画面からはみ出すとかもっとパワー的なものが作りやすくなっちゃうんですよね」

グループ名:
五つの赤い風船(モチーフ)→白い風船→ピンク・レディー
他にもチャッキリ娘、みかん箱などグループ名称を決めるのは難航したというw、五つの赤い風船は60年代後半のフォークグループで、フォークというジャンルは赤い思想のヒッピー、団塊世代、学生運動の辛気臭いイメージ、また風船は政治的意味あい(バンクシーの赤い風船など)を連想させるのでオイラはあまりいい印象は持っていない。白い~ならいいわけでもないがいったん「白い風船」に決まりかけて本人たちはサインまで練習したんだとか、さすがに阿久に猛反対されて最終的に都倉のつぶやいた「ピンク・レディー」に決定した。女性をカクテルに見立てた都倉さんらしいセクシーでいて品のいいセンスです、カクテルは飲んだことないけど。
解散時のさよならコンサート(後楽園球場)では花の種が入った5000個の「ピンクの風船」を打ち上げたがその後その種がどんな花を咲かせたか知る人はいるだろうか?

テレビ番組「スター誕生」について:
「歌い手さんの気持ちになるとね、あの番組は「人買い」みたいなイメージがあって、みんなの見ている前で落ちるっていうのはねえ、涙見てるとすごく切なくなるので、現場には行きたくないし、あんまり関わりたくないなと最初は思ってはいたんです。」
自身もロカビリーアイドルだった飯田久彦(チャコ)のこの言葉で思ったのは、アイドル歌謡界は職業作家というプロの作詞家作曲家(先生と呼ばれる)がいい曲を作ってはじめて成り立つ、作家陣も人の子だからどれだけアイドルに愛情があるかで曲の質(モチべ)も変わってくるだろう、つまりヒットになるようないい曲を作ってもらうために枕営業が後を絶たないだろうということ、阿久らが企画した「スター誕生」方式を極端に推し進めたのが秋元康のAKBだったりするわけで、、、(あーヤダヤダ)
逆に飯田久彦はアイドル側の視点を持っていたために問題意識がありピンクを売り出す際には丁寧にサポートしていただろうことが伺える。

2枚目のシングル「SOS」:
有名な「男は狼なのよ~」の歌詞は男であるオイラには微妙な響きですが、リンダプロジェクトでもやってましたが、どこかしら必ず入ってくる阿久悠のフェミ志向はピンクレディーでも意図的に踏襲されています。 これは「ガイ・イズ・ア・ガイ / 江利チエミ」(1953年2月発表)の「男はみんな狼よ」からの流用、同曲のパロディでありながら、これから芸能界というエゲツナイ業界の中で生きていく少女に対する親心のような、忠告のような、阿久の本心も滲ませているのかもしれない。今、SOSの歌詞を読むとピンクの二人に宛てたメッセージのよう、案の定、後にピンクと恋人のどちらを取るか二者択一を迫られることになるケイの運命を予見しているような歌詞でもある。

「SOS」

(映像は夜のヒットスタジオより、1977.1.3)

男は狼なのよ 気をつけなさい
年頃になったなら 慎みなさい
羊の顔していても 心の中は
狼が牙をむく そういうものよ
この人だけは 大丈夫だなんて
うっかり信じたら
駄目 駄目 ああ駄目駄目よ
SOS SOS
ほらほら呼んでいるわ
今日もまた誰か 乙女のピンチ

うっとりするよな夜に ついつい溺れ
そんな気になるけれど 考えなさい
瞼を閉じたら負けよ 背伸びをしたら
何もかもおしまいよ そういうものよ
昔の人が 言うことみたいだと
ぼんやり聞いてたら
駄目 駄目 ああ駄目駄目よ
SOS SOS
ほらほら呼んでいるわ
今日もまた誰か 乙女のピンチ

SOS / ピンク・レディー
作詞:阿久悠 / 作曲:都倉俊一 / 1976.11.25



ミーとケイ
ピンク旋風が吹き荒れた77年~78年は二人は常にテレビに出ていたので、誰もが知るところだが79年以降はブームもトーンダウンしていき、アメリカに行った話も詳細は不明、解散の要因も謎に包まれたままだったが今はネット(YouTube)で知ることができる。余談だが79年といえばインベーダーゲームとYMOが大流行した年、子供たちの関心も移ろい変わっていく。

ピンクはルックスも声も良くて元気なミーちゃんが人気でリーダー的立場なのだろうと長らく思っていたが、どちらかというと年上(同学年だけどケイが半年早い)のケイちゃんが芯が強く、グループの支えになっていたらしい。ミーちゃんはもともと引っ込み思案な性質で、二人が出会うきっかけも最初に声をかけたのはケイちゃんから(?)
ミーとケイのパーソナリティは当時は知る由もなかったが、最近思うのは、ミーちゃんは家が厳しいのもあってきちんとしている。ケイちゃんはちょっと天然入ってる。 追記・ 声をかけたのはミーちゃんのほうからだったようです。(ケイちゃんの記憶が正しければ、出会いの経緯は以下のように)
ミーちゃんが静岡市立末広中学校に転向してきたのが中一の時(1970年12月)、ケイちゃんが末広中学に転向してきたのが中二の時(1971年4月)、ケイは二年の時には必修クラブで合唱部に入っていたが合唱部が無くなってしまったため、演劇クラブを選び、三年生の4月(1972年4月(5日か12日?)ケイちゃんの現在の記憶だと4月だけど、ここは疑問が残る点、ケイちゃんが演劇部に入って来るのはケガのためにバスケット部を退部し初夏に途中から入部したと紹介されている情報もあり、コーラス部が廃部になったから演劇部に入ったのはミーちゃんの方じゃなかったっけ??)、初顔合わせみたいなのがあって(水曜日の7時間目)、授業が終わり渡り廊下を歩いてたら後ろから声をかけられたという(この時点でミーちゃんはバスケ部で目立っていたケイちゃんの事を一方的に知っていた。)




「あの・・・ケイ、転校生のケイよね」




「私、根本美鶴代っていうの、さっきあの必修クラブで一緒だったわね」っていう話で、逆光でよくみえなかったんですけど三つ編みしてて、麦わら帽子かぶってるような、本を抱いてるような感じ、もう消え入りそうな声で、可愛い優しい高い声で自己紹介していて、それが初めての出会い。(ケイちゃん談)

時代の寵児となっても歌謡界での立場はデビューしたばかりの新人である。なのにそこへ山口百恵、キャンディーズらそうそうたる諸先輩方が打倒ピンクを掲げ全身全霊で立ち向かってくるのだから、重圧はかなりのものだったろう。(ただピンクのおかげで歌謡界全体のクオリティが上がるのだから見てるほうは楽しい。ピンクがトップを走っていた77年~78年は日本歌謡界の黄金時代ではなかろうか)
しかも苛酷な過密スケジュールのため歌番組のスタジオ入りはいつも遅れてやって来て先輩を待たしていたという。(想像でしかないけど、これ日本社会だと物凄い重圧を感じるよね。待つストレスと嫉妬の入り混じった空気...怖い)
それ以上に超絶過密スケジュールで頭がオーバーフローを起こしていてケイは当時のほとんどの事が記憶にないらしい...。しかも寮ではメシなし、冷水シャワー、シャンプーも使わせてもらえないといった虐待に近い生活、笑顔の裏でそんな生活をしていたとは...絶句!

たしか77年の絶頂期にケイが緊急入院してミーが一人でピンクをやってた時期があって、やっぱり肉体的にも精神的にも疲れは相当だったんだろうなあと思います。
加えてその時はミーの一人姿に「もの凄く違和感」を覚えました。隣にケイちゃんがいないのがきわめて不自然。ミーの隣はケイ、ケイの隣はミー、いない事はありえない。ピンク・レディーという存在が個々を超越してしまっているからだろうか、替えがきかないんですよ。二人揃ってはじめてピンクレディーになる。というような、(UFOの時だったと思うけど、1人ピンクの映像は探したけど見つからなかった、)

人間性と芸能ビジネスとの間のゆがみをまともに受けてしまったケイちゃんが徐々に病んでいったのが解散の要因にもなっていると我々は後年知ることになる。 2012年放送の番組「ザ・プレミアムトーク」内でミーちゃんがケイちゃんに宛てた手紙には、涙、涙、



参考サイト:
ザ・プレミアムトーク
ピンクレデイープロジェクト(驚きももの木20世紀)
ピンク・レデイー特集(金スマ)
ピンク・レデイー解散までのまとめ
ピンク・レディーの楽しい道
飯田久彦インタビュー
S・O・S
ピンク・レディー ケイちゃん登場
スター誕生の合格の裏に隠された綿密に計算された戦略を探る

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