2021/07/11

linda linda linda

「山本リンダ考」
ピンク・レディーを深堀りしていくとやはりこの人に行き着いてしまう。 山本リンダ(1951年3月4日)は「こまっちゃうナ」で1966年9月にデビューしたアイドル歌手です。 (*)福岡県小倉市(現:北九州市)に生まれ父親はアメリカ人、母親は日本人のハーフ、父親はアメリカ軍の軍人だったが、山本が1歳の頃に朝鮮戦争で戦死した、GHQ統治下の日本で生まれたいわゆるGIベイビーである。リンダ(Linda)という芸名は、アメリカ人の父親に生前付けられた愛称、15歳の時にミノルフォンレコードから「こまっちゃうナ」で歌手デビュー、舌っ足らずな口調を売りにした可愛い子ちゃん歌手、以降はヒットに恵まれず、人気は低迷する。(*wiki)

リンダ・リンダ
1972年に「どうにもとまらない」で復活しますが(第2次リンダブーム) 調べていくうちに「リンダ復活プロジェクト」は今日まで続くアイドルプロデュースにおけるひな型となっているのが見えてくる。 歌謡史においても歌手軸でとらえてしまいがちなので、なかなか見え難いものだけれど、作家軸でとらえると歌謡史の流れがつかみやすく理解しやすい。自作自演のシンガーソングライターと、基本的に他人作の楽曲のボーカルパートのみを歌手が担う歌謡においては役割が全然違うわけです(当たり前だけど)ただプロの作家というのは音楽的な素養が膨大なので掘り下げていくのも大変、、

変身リンダ:
山本リンダのイメチェン後の「どうにもとまらない」は1972年6月発売だから私が幼稚園の時ですね。記憶もおぼろげな時期ですが、お茶の間にVictorのカラーテレビが来たのもちょうどその頃(それまでは白黒テレビ)、リンダは強烈に印象に残ってます。70年代初頭の暗い世相の中、当時のテレビの歌謡コンテンツといえば演歌とフォーク系歌謡全盛の時代、そんな気が滅入るような暗い歌を子どもが好きになるわけなくて、テンション上がって楽しいのに惹かれるわけで、ハッキリ覚えているのがリンダとフィンガー5(あとキャロル、ダウンタウンブギウギバンド)、 リンダさんは前年に「仮面ライダー」にライダーガールズのマリ役として出演(1971年7月から同年12月まで)していてよく知ってました。仮面ライダーの14話から出演しているんですが、この14話「魔人サボテグロンの襲来」(1971.7.3放送)というのがライダー史上非常に重要な内容で、ライダー2号(一文字隼人)が初めて登場する回であり、そして初めて「お見せしよう、仮面ライダー、変身!」の台詞とともに変身ポーズを世に披露したのもこの回からです。リンダさんは美人で大柄でオーバーアクションでやたらと動き回るのでライダー同様目立っていてちびっ子にも親しまれていたんです。当時、この変身ポーズが流行していて「変身ブーム」というものがあったんですね、 変身ブームは翌1972年、仮面ライダーに本郷猛(1号)が復帰してきて、強化改造された1号が変身ポーズを披露した頃に最高潮に達し、(「ライダー、変身!」で有名な1号の変身ポーズの初出は第53話「怪人ジャガーマン 決死のオートバイ戦」(1972.4.1放送)から) ライダーのように変身して悪と戦う特撮ヒーロー番組(変身忍者嵐、キカイダー、イナズマン等々) も続々登場してTVを席巻していて、そんな中リンダさんも「リンダ・ヘンシ~ン!」で可愛い子ちゃんアイドルからセクシー路線に変身 する事になるわけなんですが、ライダーガールズの綺麗なオネーチャンが変身して、ヘソ出して腰を激しく振りながら「もうどうにもとまらないっ!」とやるんだから、幼少時の記憶にも確実に残ります。1972年にはリンダは仮面ライダーには出ていませんでしたから、 ライダー1号が戻ってきたと思ったらリンダ(ライダーガールズのマリ)も強化改造して戻って来たような印象を受けて嬉しかったんですよね確か。 私より上の世代はアイドル時代の「こまっちゃうナ」の可愛いイメージのリンダを知っていますからそりゃ度肝を抜かれた事でしょう。そうそう思い出したことがあって、 当時、ノリがよくてかっこいいなと思う曲は必ずといっていいほど作曲に都倉俊一先生のクレジットが入っているのに気づいて、テレビのテロップに"作曲:都倉俊一"のクレジットタイトルが出る度に気持ちが高揚してワクワクしていたのでした。




山本リンダ・プロジェクト:
山本リンダ復活プロジェクトの事です。
当時、リンダの所属していたキャニオンレコードは経営危機に陥っていたため、フジサンケイグループとして、キャニオンの社運をかけて売り出すべき歌手を一人だけ選び、その歌手に力を入れようということになり、リンダが選ばれたらしい。 リンダプロジェクトチームは1972年に活動を開始、当時の日本の歌謡界である歌手を売り出すために大々的なプロジェクトを組む例などはなかった模様、コンセプトを決め、それに沿って作詞家、作曲家の先生に曲作りをお願いし、衣装を工夫し、振り付けを考える。多くのスタッフが力をあわせて一つのエンターテインメントを作り上げていく。(*)プロジェクトの中心のプロデューサーは、フジテレビの吉田斉が務め、それもあって、実にテレビ時代のテレビ的な作り方をし、作詞(阿久悠)、作曲(都倉俊一)のほかに、振付の一宮はじめとか、衣装デザインの椎名アニカとかが初めから加わっていた。(*阿久悠自著より)

都倉俊一ロング・インタビューより(抜粋):
・そういう意味では、総合プロデュース第1弾アーティストは山本リンダさんということになりますか。
都倉「そう言っていいでしょうね。あれは、テレビ局のディレクター(吉田斉)から僕が頼まれたんですよ。引き受けようと思ったのはね、そのディレクターが、テレビであの子を作りたいと言ってきたから。テレビというのは、何よりもまず、ビジュアルがあるわけでしょう。それで面白いと思ったのね。リンダ自身も、可愛い子ちゃんのアイドル歌手を卒業したものの低迷している時期で“何でもやります!もう、どうにでもしてください!”という姿勢だったから、自由な発想ができました。」
・最初にどんな事をイメージされたんですか?
都倉「僕はね、リンダを絶対にイイ女にしたいと思ったんだ。どんな事をしても。だって、実際イイ女なんだよ。当時まだ22~3歳でね、スタイルは抜群だしね。そのイイ女を、ただのイイ女じゃなくて強烈な個性を持ったイイ女にしたいと思った。僕の中には、もう絵(テレビの映像イメージ)が浮かんでてね、それで、イントロがあって、メロディがあって、サビがあって、ああしよう、こうしようというアイデアが猛烈に出てきて、スコアを書いた。」
・それが「どうにもとまらない」?
都倉「そう。最初からサンバのリズムでいこうと考えていてね、サンバロックみたいなものをやりたいと。それで、イントロからアレンジまで完成した曲を阿久さんに渡して、歌詞を書いてもらった。そしたら、「恋のカーニバル」というタイトルの詞ができてきた。」

阿久=都倉による「非日常性のエンターテイメント」路線がここから始まる。テーマを決めて都倉が曲を作り、阿久悠が詞を載せていくという歌謡界の頂点のコンビによる曲作りの始まりがリンダのプロジェクトだったわけですね。

世界千夜一夜シリーズ:
このシリーズ面白いので表にしてみました。、 山本リンダのキャリアのうち阿久と都倉コンビが手掛けたのは通算20枚目のシングル「どうにもとまらない」から10作品あり、そのうちの9作品が本シリーズとなっています。それぞれにテーマがあり、椎名アニカ氏による衣装があって「〇〇リンダ」のキャッチフレーズがあるものもある。(キャッチ・フレーズに関しては本シリーズだけではなくキャニオン時代のリンダのシングルには全てにつけられていたとの情報もあり) シングル盤は見開きのジャケット(ポスターみたいにして貼るため?)になっていてリンダの衣装がわかるように全身姿が印刷されている丁寧な作り、 ただジャケットにシリーズのテーマは明記されておらず、テーマはメディア向けの新曲の発表会、およびグラビア雑誌(週刊プレイボーイ、平凡パンチ)などで宣伝文句として紹介されていた模様、だから不明なものや曖昧なものもあり詳細は今後内容が判明次第更新予定(本稿の画像はすべてネットの拾いものです)また当時はどこをどう見せるか話題になっていたんだとか、へそ出し、背中出し、太ももチラリ、シースルー、と続いて最終的に見せるところがなくなっていき「ぎらぎら燃えて」では露出なしになったんだとか(男装だから)、、 -
No.発売日タイトルテーマお国巡りキャッチフレーズ
11972/6/5どうにもとまらないアフリカン・ロックブラジル変身リンダ
21972/9/5狂わせたいのペルシャの女奴隷ペルシャ迫るリンダ
31972/11/25じんじんさせてチャイニーズ・ロック中国-
41973/2/25狙いうちコサックダンスロシア激感リンダ
51973/6/10燃えつきそうサンバ・ロックブラジル-
61973/8/25ぎらぎら燃えてフラメンコ、タンゴスペイン燃焼リンダ
71973/12/10きりきり舞いフレンチ・ポップス(?)フランス 今、さわやかリンダ
81974/4/10真っ赤な鞄四畳半バロックドイツ -
91974/7/10奇跡の歌ジャックと豆の木--
101974/8/25闇夜にドッキリ-- ブギウギリンダ

1.どうにもとまらない
「リンダをイイ女にしたい」でサンバのリズム、こうなるという発想がもう最高、パーカッションのみのイントロは何度聞いてもゾクゾクします。ドラム、コンガ、カウベルだけで構成される原始的サンバのリズムの楽曲はやはりストーンズの「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」(1968年12月発表)を連想してしまいます。ミックジャガーをして「この曲を(ライブで)演ると何かか起こるんだ」というクレイジーサンバのリズム、そして実際起きてますね(オルタモントの悲劇)、それほどに人々を興奮、狂乱状態にさせるアフログルーブ、この「悪魔を憐れむ歌」のイメージが都倉さんにあった事は間違いないとみていいでしょう。ドアーズの「タッチ・ミー」(1968年12月)も入ってますね。 70年代初頭の日本でこの都倉さんのセンスは突出しています。サンバ歌謡と呼ばれるヒット曲はそれまでにもあったが、サンバの歌謡じゃないんだよね。サンバ+ロック+歌謡、そして日本のロック第1号でもある、と私は捉えています。 「日本のロック」に明確な定義はないですが、ただ単にロックのリズムに日本語の詩をのっければいいというものじゃなくて、音楽として魅力的に成立していること、独自の世界観を持ち商業的にも成功していること等も重要なポイントです。もしリンダ以前に日本のロック(もしくはロックンロール)があるというなら教えて頂きたいものです。ロックなんだからダサいのは認められないよ。 1972年は12月にキャロルがデビューした年でもあるので日本のロックにとって重要な年であったことになります。翌1973年にはダウンタウンブギウギバンドがデビュー、同時多発的に新しい傾向の音楽が生まれる要因はやはり人々の潜在的な需要があるわけで偶然のようにみえますが時代の要請でもあるわけです。70年代初頭(ベトナム戦争の長期化、学生運動の過激化)ですからジメジメした時代の空気を払拭したいといった感じでしょうか、、もちろん景気の良し悪しにも左右されます。
性衝動を抑えきれないこの曲の女性像のモデルは不明、この段階で阿久悠にはまだシリーズ化の発想はなかったのかもしれません。 オール日本語詞である点でも画期的です、唯一「カーニバル」という横文字が入りますが、カーニバルはもともとこの曲のテーマであったわけだし、カーニバルという響きが持つ「ゾクゾク感」はこの曲のイメージ(「謝肉祭」や「お祭り」ではそぐわない)にマッチしていて外せない言葉なのでしょう。(タイトル変遷:「恋のカーニバル」→「熱い心をあげようか」→「どうにもとまらない」) 歌詞中に5人もの男性が登場する恋唄も他に類を見ない「器量のいい子」、「やさしいあのひと」、「港の誰か」、「広場の誰か」、「木かげの誰か」と、嗚呼リンダがどうにもとまらない。1972年6月

変身リンダ発声法:
都倉「「こまっちゃうナ」のイメージを変えるために、特訓の末、発声法を変えました。すでにできあがっている歌手にはムリなことですが、彼女の場合ゼロに近い存在でしたから、バラバラにして作りなおしていける魅力があったわけです。」
リンダの舌っ足らずな歌い方だと言葉がリズムに乗らない、その要因は母音が足らない事だと気づいた都倉がリンダに母音を強調させて歌わせてみたら途端にノリが良くなったという、
~"うわさをしんじちゃいけないよ"ではなく"うぅ、わぁ、さぁ、をぅ、しぃ、ん、じぃ、ちゃぁ"である。つまり日本語を英語風に発音させたのである。とたんにノリがよくなった。彼女もそれを感じたらしく、歌全体が生き生きとしてきた。(都倉俊一著「あの時、マイソングユアソング」から)
この特訓こそ日本語のロック誕生において歴史的な意義を持つものです。この時、都倉俊一(23才)、山本リンダ(21才)、 巷で日本語ロック論争(1970年、ロックは英語で歌うべきか?それとも日本語で歌うべきか?議論)なんてものがあるけど、私はあの時点で内田裕也が指摘したこと(日本語とロックの結びつきに成功したとは思わない)は非常によくわかるし、松本隆もそれは認めている。論争は日本語と英語のチャンポン詞を歌うキャロルの登場によって論争自体不毛なものとして終息してしまいますが、キャロルはもともと英語の詞を歌っていて、日本語詞に取り組むのはレコード会社の意向を受けてからですから1972年でもデビュー直前の後半の時期、日本語によるロックの確立において、リンダの方がキャロルより早いんです。(キャロル:1972年6月結成、12月25日デビュー)
都倉とリンダ、そして奇しくも同年に矢沢とジョニーが取り組んだこの「英語の発音のように」歌う唱法は、その後、意味よりも語感を重視しすぎた結果、サザンの桑田などだんだんと「何を言ってるのかわからない歌」になっていきますが(それはそれで否定はしないけど)、、 リンダの場合はいくぶん美空ひばりっぽい演歌テイストのドスの効いたトーンで、日本語の言葉がハッキリと聞き取れる唱法であり、「言ってることがわからない」「日本語はロックのリズムに乗らない」といった日本語の課題もクリア、語感を重視するが言葉も崩さない、西洋文化に媚びない、私はそこにたまらない魅力を感じるのです。これが歌謡ですよ、プロフェッショナルの仕事、ハッキリとした日本語がかっこいい、この楽曲こそ「日本のロック第1号」だと思う理由です。西洋風化していく日本人もいるなか、ハーフの女性がこの唱法をやったというのも面白い。(矢沢もソロ以降、演歌チックな同路線を辿ることに)もちろんリンダ式唱法も今日まで日本のロックに受け継がれています。

「どうにもとまらない」

映像は1972年(昭和47年)第23回NHK紅白歌合戦より、1972.12.31
NHKから"おヘソOK!"の許可を得た山本リンダさん


うわさを信じちゃいけないよ 私の心はうぶなのさ
いつでも楽しい夢を見て 生きているのが好きなのさ
今夜は真赤なバラを抱き 器量のいい子と踊ろうか
それともやさしいあのひとに 熱い心をあげようか
ああ蝶になるああ花になる 恋した夜はあなたしだいなの
ああ今夜だけああ今夜だけ もうどうにもとまらない

港で誰かに声かけて 広場で誰かと一踊り
木かげで誰かとキスをして それも今夜はいいじゃない
はじけた花火にあおられて 恋する気分がもえて来る
真夏の一日力ーニバル しゃれて過していいじゃない
ああ蝶になる ああ花になる 恋した夜はあなたしだいなの
ああ今夜だけ ああ今夜だけ もうどうにもとまらない

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一


第14回日本レコード大賞:
1972.12.31、NHK紅白の数時間前、千代田区丸の内の帝国劇場で行われた第14回日本レコード大賞出演時の映像、こちらは完全ヘソ出しVersion(シャツの結び目が短い)、作曲賞受賞で都倉先生も登場


2.狂わせたいの
まず、冒頭のギャギャギャギャギャギャギャギャ ギャギャギャギャギャギャというせり上がる轟音ギターに奮える、これは歌謡曲なのか?こんな歌謡曲ちょっとないよ。都倉さんはリンダを手掛ける際にロックを作りたい欲求に駆られていたらしく、その鬱憤が炸裂したようなスリリングな楽曲、終始打ち鳴らされる不穏なカスタネット(?)の響き、挑発的、煽情的で狂気を孕んだガレージ色の強い曲調に最初に連想したのがストゥージズ!、ピンクレディーが日本のセックスピストルズだとしたら日本のイギーポップに相当するのが淫力魔人リンダちゃん、ガラスの破片の上でのたうち回り「I Wanna Be Your Dog(おまえの犬になりたい)」(1969年発表)、を歌うイギーポップにも通じる世界観。「ペルシャの女奴隷」というテーマも秀逸、「展覧会の絵」などの楽曲で有名なロシアの作曲家・ムソルグスキーの遺作オペラ「ホヴァーンシチナ」に「ペルシャの女奴隷たちの踊り」という楽曲があり、これがイメージの発端になっていると思われます。 ペルシャ(現在のイラン)は千夜一夜物語の舞台でもあり「からだをつないだ鎖をはずしてどこかへ連れてって」と歌われる女奴隷の解放がテーマの物凄いハードロック歌謡、アラビアンナイトでは女奴隷は聡明で美しいものとして描かれていたようです。 また印象的なギターの旋律はマリンバに置き換えられピンクの「サウスポー」のサビの箇所で流用されていてこちらは大ヒットしていますね。イギーポップ→狂わせたいの→サウスポー→甲子園と捉えると面白い流れ、米米クラブのライブでも定番、現在でも全く古びない異様な興奮状態を呼び起こす魅力を持っています。 B面の「もっといいことないの」もロックしてていいですね。こちらは「No Fun(つまんねーな)」が発想のヒントでしょうか、そしてフィンガー5の「個人授業」へと発展していきます。いやホント阿久と都倉は素晴らしい。NHKでは歌唱禁止だったらしい。なおこの曲「狂わせたいの」は「人造人間キカイダー」24話「魔性の女?? モモイロアルマジロ」においてモモイロアルマジロの人間態(謎の女)が夜の街で近付いてくる男を狩る際(おっぱいで窒息させてから額に濃厚なキスをする)の挿入歌として使用されている。(1972.12.23放映)時期といい「くるくるくるくるくるくる...」というかけ声といいモモイロアルマジロのモチーフにリンダのこの曲があったとしか思えないんだが。

「狂わせたいの」
ぼやぼやしてたら私は誰かのいいこになっちゃうよ
これほど可愛い女は二度とはお目にはかかれない
あなたに抱かれてかげろうみたいにゆらゆらゆれるのよ
時には涙をやさしく流してすがってみせていい

私は恋の女 いつでも恋のどれい
好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
からだをつないだ鎖をはずしてどこかへつれてって
必ずすてきな夢みる気分にあなたをしてあげる

ぼやぼやしてたら私は誰かのいいこになっちゃうよ
欲しけりゃ欲しいとこころとからだではっきり云ってくれ
一つの国でも私に賭けても決して損はない
今日から毎日花園みたいなくらしが出来るのさ

私は恋の女 いつでも恋のどれい
好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
真赤に色づく私のくちびる こころを焦がすのよ
この目を見たならあなたは二度とは忘れてくらせない

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一




3.じんじんさせて
日中国交回復(1972年9月)にちなみテーマはチャイニーズ・ロック、冒頭のチェレスタによる中華風メロディはオリエンタルリフといい西洋人がアジアのオリエンタルなイメージを表現する際に用いられるフレーズで中華風といっても中国の音楽ではなく西洋由来のフレーズ、(時に日本をイメージした楽曲でも用いられますが日本人からすれば違和感しかないが、、)オリエンタルリフのポピュラー音楽への導入はカール・ダグラスの「カンフー・ファイティング(Kung Fu Fighting)」が1974年なので、日本ではもちろんのこと世界的にも最初期の使用例ではないだろうか、、オリエンタルリフに続いてアルバート・ケテルヒーの管弦楽曲「ペルシャの市場にて」(またペルシャ!)引用のサックス部があり、ブンブン唸りをあげるベースラインと高速ドラムによる強力なビートに変身リンダ発声法による超絶高慢な女性像が歌われる、(テーマが中国なのでモデルは唐代の皇妃・楊貴妃でしょうか、)強力なグルーブを持つロック歌謡で同時期のディープパープルのハイウェイ・スター(Highway Star 1972年3月、BPM170)に通じる疾走感が爽快、誰も追いつけないオレ、誰も口説けないアタシ、という内容の歌詞もどことなく似てますね。リンダの楽曲では最速のBPM162、誰もリンダの音速に追いつけない、 ジャケットの髪をアップにして黒いドレスに身を包んだリンダさんも美しい、シリーズ中最高傑作。

「じんじんさせて」
ひとりふたり恋の相手は星の数
誰も彼も花を抱えて戸を叩く
悪い気はしないけど 眠らせて
望むものは全てその手に抱くがいい
好きな時に好きな所へ行くがいい
この世界 君のためあげるという

ダメダメ 女を口説くのは
どこにもあるよな手じゃダメよ
心がじんじん痺れてみたい

朝も昼も夜も構わず押しかけて
愛で金で地位であれこれ口説くけど
それじゃまだ燃えないわ諦めて

ひとりふたり恋の相手は星の数
誰も彼も悪い男じゃないけれど
抱かれてもいいなんて思えない
男嫌いなんて言われて困るけど
今はそっと1人ベッドで眠るだけ
口づけも唇はやめにして

ダメダメ 女を口説くのは
どこにもあるよな手じゃダメよ
心がじんじん痺れてみたい

前に膝を着いて この手に口づけて
大の男 涙流してすがるけど
それじゃまだ燃えないわ 諦めて

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一


4.狙いうち
この世は私のためにある(ドン!)という巷のフェミニストがかわいく思えるほどの独裁的女性像の歌、 「弓をきりきりイ~」「心臓めがけェ~」「逃イ~がさない」の迫力ある狙い撃ちの描写は野球の応援歌として用いられているほど、 阿久悠による高飛車な女性像はシリーズ中、段々とエスカレートしていってこの曲で頂点を極めます。 モデルはロシア史上最強女帝と称されるエカチェリーナ2世でしょうか、跡継ぎを産むことを大義名分に愛人を作り、出産を繰り返し、愛人が途絶えることなく有名なものだけで12人(後世にその数300人とも)、しかし男には一切政治に関与させず、クーデターを指揮して夫である前皇帝ピョートル3世を幽閉(おそらく殺害も指示)、みずからロシア皇帝(大帝)として君臨、「玉座の上の娼婦」と言われたという、ワンピのボア・ハンコックとシャーロット・リンリンを足したような怪物女、 もはやセクシー路線でもない女王様路線。 コサックダンス風の楽曲というのもドイツで音楽を学んだという都倉さんの経歴由来のものでしょうか、ロシア民謡の流れも汲む歌謡の世界はホント奥が深いですね。この曲のベース(モチーフ)はさっぱり分かりません。 リンダさんの衣装はシースルーブラウスとバックにスリットの入ったパンタロンでスリットはお尻付近まで割れていてシングル盤ジャケットでも確認できるようにお尻を前面に向けたピンナップとなっています。 都倉が自ら「ウダダ、ウダダ」と仮に歌ったデモテープを阿久悠へ送ったら、送り返された歌詞が「ウララ、ウララ」となっていて都倉さんを仰天させたというエピソードも有名、オリジナル音源でのリンダさんは「ウダダ、ウダダ、ウダウダで」と歌っているように聞こえます。まあこの曲は女王様ウラウラぁ~!な歌詞のインパクトが絶大、リンダに狙われて石化。(ウラー:ロシア語で「万歳」の意)

「狙いうち」
ウララ ウララ ウラウラで
ウララ ウララ ウラウラよ
ウララ ウララ ウラウラの
この世は私のためにある

見ててごらんこの私 今にのるわ玉の輿
磨きかけたこのからだ そうなる値打ちがあるはずよ
弓をきりきり 心臓めがけ 逃がさない パッと狙い撃ち
神がくれたこの美貌 無駄にしては罪になる
世界一の男だけ この手にふれてもかまわない

ウララ ウララ ウラウラで
ウララ ウララ ウラウラよ
ウララ ウララ ウラウラの
この世は私のためにある

女ひとりとるために いくさしてもいいじゃない
それで夢が買えるなら お安いものだと思うでしょ
弓をきりきり 心臓めがけ 逃がさない パッと狙い撃ち
世界中のぜいたくを どれもこれも身にまとい
飾りたてた王宮で かしずく男を見ていたい

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一




5.燃えつきそう
「どうにもとまらない」からちょうど1年後の夏歌で再度ブラジル回帰、サンバ・ロックとあるがロック色はなく、より本格的なサンバ(サンバ+歌謡)、 モデルは不明ですが「その気になったらとまらない」「うわさはほんとだよ」「私を嵐にもまれる小舟のようにして」などの歌詞から「どうにも」の女性と同一人物、性衝動を隠そうともしない本能に忠実な女性像、満月の夜にその性衝動はピークに達し、リンダさんのはぁ・・・はぁ・・・アハ~ン・・・あえぎ声息づかいまで聞こえてきそうな「どうにもとまらない」の続編ともいえる作品。 特筆すべきはサンバ・ビートのドラミングを確立した一人ウィルソン・ダス・ネヴィス(Wilson das Neves)の起用で本格的な日本語のサンバとして楽しめます。 この辺の経緯はピンクの夏歌「波乗りパイレーツ」でのビーチボーイズのコーラス起用とも似ています。楽曲を作る際に本家を使っちゃう都倉さんらしい発想、もっとも都倉さんのような先進的で多岐にわたる楽曲を演奏させられる当時の日本のミュージシャンたちの苦労も並大抵のものではありませんね、「君、サンバ演って、次の曲はボッサ調、パープルのペイスみたいなドラムで、ストゥージズの歪んだギターで、、、」とか言われてそう簡単にできるものじゃなし、、天才都倉がプロデューサーとしてミュージシャンを選定し使えるような立場にあったからこそ一連の贅沢なリンダシリーズの「音」ができあがったんだとも思うのです。 ブラジル、リオ録音、 B面のボサノバ歌謡「行きずりの二人」も心地よい。


6.ぎらぎら燃えて
燃えてる系が続きます。後のラスティックを感じさせるマカロニウェスタン調のイントロ部はかっこいいが聴いてて少々暑苦しいか、、リンダの歌唱も力が入りすぎ。タイトル、燃えさかる炎(炎帝)をバックにしたジャケット、「(黒ひげの)裏切り許さぬはげしい気性」「火の玉みたいなこの胸をつかんでやけどをしてごらん」「情熱がぎらぎら燃えた」といった歌詞も、何から何まで熱い熱い熱い熱い熱風リンダ、歌謡史上もっとも熱い作品ではないでしょうか、モデルはスペインとくればやはり「カルメン」でしょう(カルメンとは19世紀フランスの作家プロスペル・メリメの小説、またはヒロインの名前)、激しく恋に燃えるが心変わりしやすく危険なジプシーの女(ボヘミア人)、このテーマは後にピンクレディーでも取り上げていてピンク版「カルメン'77」はご存じ大ヒット、リンダ版はカルメン'73ということに。露出なしの黒ずくめ衣装もかっこいいです。ワンピのエースのテーマ、ではないけれどイメージの元ネタなんじゃないかと、わりと本気で思う。


7.きりきり舞い
前作の暑苦しさの反動からか、可愛らしいフレンチポップス、前年(1971年)に大ヒットしたミシェル・ポルナレフの「シェリーにくちづけ(Tout,tout pour ma chérie)」を彷彿とさせるTuTu TuRuRu TuTuTu TuRuRu・・・・というスキャットで始まる。 この曲からリンダの発声法がさらに変化し変身リンダ発声法の第2期はフレンチな「ささやき唱法」になります。ウィスパーボイスによる歌唱の可愛らしい歌ではあるけど、「ゴメンネ、ゴメンネ」と言いながら「たいくつな時は死にそうになる・・・」「突然、悪いささやきが聞こえ私はあなたを捨ててしまう・・・」という身勝手というか理性のブッこわれた小悪魔系女性像が可笑しい。怖い事を可愛らしいウィスパーボイスでサラリと歌わせてしまう阿久・都倉はホント考えることが面白い、モデルは「素直な悪女」のブリジット・バルドーでしょうか、自由奔放で衝動的に突飛な行動をとって男を振り回すちょっと面倒なフランス映画のヒロインが描かれています。ウィスパーボイスのフレンチポップは日本だと渋谷系(1991年~)アーティストのカヒミカリイやCharaなどが有名ですけど、日本初はリンダさんのこの曲じゃないでしょうか。実は阿久さん自身も気に入っていたというこの曲はミュージシャンにも人気で、歌謡マニアでもある近田春夫さんのカバーが有名。リンダの振付がわかる当時の映像はかなり稀少(↓)だと思います。

「きりきり舞い」


はらはらさせてごめんね
いい子でなくてごめんね
浮気ぐせはなおらないのよ
夜風が甘いだけでも
祭が近いだけでも
からだ中が燃えてしまうの

たいくつな時は死にそうになるのよ
突然悪いささやききこえ
私はあなたを 捨てて 捨ててしまう
きりきり舞いであなたの
人生さえも狂わせ
悪いことをしたと思うわ

はらはらさせてごめんね
いい子でなくてごめんね
だけどそれが魅力なのかも
油断をしたらするりと
どこかへとんで行きそう
だから強くつなぎとめてよ

たいくつな時は死にそうになるのよ
突然悪いささやききこえ
私はあなたを 捨てて 捨ててしまう
きりきり舞いをしている
あなたがかわいそうだわ
だから駄目といったじゃないの

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一


8.真っ赤な鞄
バロック音楽を取り入れた実験的な作品、これも他に類を見ない歌謡曲だと思います。都倉さんはもともとベースにきちんとクラシック音楽があるのと同時代の膨大な音楽体験があるので彼の音楽を評価するには評価する側にも相当な素養が求められます。阿久さんの千夜一夜物語しかり、この二人の世界はある意味ビートルズ以上に奥深い(いまだ正確に評価できる人はいないんじゃないか)と思います、基本的に自分達で演奏もこなさなければならないバンド形態とプロの作家では比較にならないか、、


9.奇跡の歌
世界千夜一夜シリーズ最終作品(「真っ赤な鞄」で終了との説もあるがハッキリしない) アニメミュージカルファンタジー「ジャックと豆の木」の挿入歌、 ジャックと豆の木 は、1974年7月20日に公開された 日本のミュージカルアニメ映画作品、 音楽構成を阿久悠が担当しており、Youtubeでも閲覧可能。 リンダさんは、この映画で雲の上の王国のマーガレット王女の声を担当しています。ちびまる子ちゃん曰く「奇っ怪な歌」


10.闇夜にドッキリ
都倉先生はよく自作曲の再利用をやりますがこれはピンクの「UFO」の元ネタ、同時期にもっとそっくりな「白い羽根の勇士 / ザ・キャラクターズ」(1974)という曲も存在する。稀代の名曲「UFO」が完成するまでの変遷が分かる興味深い楽曲。
B面の「きっとまた」は「行きずりの二人」以来の素敵なボサノバ歌謡、今回は第2期の可愛らしいウィスパー唱法で歌われていてより曲調にフィットしてます、10作続いた阿久=都倉コンビともしばしのお別れ。



リンダ・リンダ・リンダ
リンダさんの第3次ブームは1980年代の後半になってから、子供の頃にリンダを体験した人たちが大きくなって、米米クラブ(カールスモーキー石井、1959年9月生まれ)がライブでカバーしたり、クラブでリバイバルヒットしたり、決定的なのがちびまる子ちゃん(さくらももこ、1965年5月生まれ)に出てきて、まる子のリンダ歌唱がアニメで全国的に放映されてからでしょうね。 (第66話「まるちゃん お花見に行く の巻」1991.4.7放映)
70年代前半なら今日のように娯楽も多様化していないし、家にはテレビしかなくて日本に生まれてみな似たような体験をしていて、それで大人になってバンドやったりDJやったり漫画描いたりしてるわけで、再燃するのも必然といえば必然、それがさらに下の未知の層に広め支持を得ていく、優れたものはこうやって残り続けるんでしょうね。(リンダさんの3回目のブームは仕掛人がいたわけではなく、70年代の子供たちによる自然発生的なものだから)、今思えば、70年代はテレビの時代でした。全国的にカラーテレビが普及し始めた時期でもあり、お茶の間の中央に据え置かれ、家族で視聴するという生活スタイルがどこの家庭にもあった。実際、アニメもドラマも歌謡も質の高いコンテンツが多かったように思います。スターはスターらしく輝いていたしレコード大賞も紅白歌合戦も年末年始の国民的行事であったような時代がありました。
阿久は79年に休業を宣言、80年以降は主軸を演歌に移し、都倉は日本を離れ活動の拠点をLAに移しミュージカルの道へ進み、それ以降は阿久と都倉の黄金コンビによる作品は見られなくなっていきます。 私もその頃にはテレビとは距離を置いてましたが、私の中でテレビの価値が徐々に下がっていったんでしょうね。 きっかけは日比谷野音のステージ上で泣き崩れたキャンディーズかもしれないし、小雨の降る後楽園球場で震えながら解散コンサートを行ったピンク・レディーかもしれない、そういうの観て目まぐるしく登場する新しいアイドルを追いかける気には到底なれないし。世相を知ろうとしてもロッキードで総理大臣をしつこく叩き続けるニュースにもうんざり、特にニュース報道における作り手側の作為的な意思が透けて見えてきて、テレビ電波を負のエネルギーとしか感じられなくて冷めてしまったというのもあります。ただ阿久悠や都倉俊一がいたように、作り手の夢を乗せた電波を発信していた時期も確かにあったと思います。

阿久悠「都倉俊一と組んでの、非日常性のエンターテイメント路線というのは、過去に相当な実績があった。ぼくらはそれを、テレビ時代の歌とも言い、歌のアニメーション化とも呼び、二人が開拓して、発見した路線だと、自信も誇りも持っていた。」(夢を食った男たち)




参考サイト:
都倉俊一ロング・インタビュー
Musicman’s RELAY「都倉俊一」
近田春夫が選ぶ「文化庁新長官・都倉俊一の名曲ベスト10」
Linda Yamamoto Gallery
仮面ライダー・マリ
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人造人間キカイダー 第24話「魔性の女?? モモイロアルマジロ」レビュー
インタビュー Vol.44 華麗なるデビュー50周年を迎え更なる挑戦を!山本リンダ
じんじんさせて / 山本リンダ
山本リンダキャニオン・イヤーズ
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テレビ探偵団「山本リンダ」(1991年09月08日)
言葉の魔術師、阿久悠の80年代仕事 — 円熟を極めた素晴らしき作品群
悪魔を憐れむ歌
Sympathy for the Devil / The Rolling Stones(1968)
Touch Me / The Doors(1968)
I Wanna Be Your Dog / Stooges(1969)
ホヴァーンシチナ
Modest Mussorgsky - Khovanshchina: Dance of the Persian Slaves
ペルシャの市場にて(In a Persian Market)
Highway Star / Deep Purple(1972)
エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
ジャックと豆の木 (1974年のアニメ映画)
シェリーに口づけ / ミッシェル・ポルナレフ
きりきりまい / 近田春夫&ハルヲフォン
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