2021/07/11

linda linda linda

「山本リンダ考」
ピンク・レディーを深堀りしていくとやはりこの人に行き着いてしまう。 山本リンダ(1951年3月4日)は「こまっちゃうナ」で1966年9月にデビューしたアイドル歌手です。 (*)福岡県小倉市(現:北九州市)に生まれ父親はアメリカ人、母親は日本人のハーフ、父親はアメリカ軍の軍人だったが、山本が1歳の頃に朝鮮戦争で戦死した、GHQ統治下の日本で生まれたいわゆるGIベイビーである。リンダ(Linda)という芸名は、アメリカ人の父親に生前付けられた愛称、15歳の時にミノルフォンレコードから「こまっちゃうナ」で歌手デビュー、舌っ足らずな口調を売りにした可愛い子ちゃん歌手、以降はヒットに恵まれず、人気は低迷する。(*wiki)

リンダ・リンダ
1972年に「どうにもとまらない」で復活しますが(第2次リンダブーム) 調べていくうちに「リンダ復活プロジェクト」は今日まで続くアイドルプロデュースにおけるひな型となっているのが見えてくる。 歌謡史においても歌手軸でとらえてしまいがちなので、なかなか見え難いものだけれど、作家軸でとらえると歌謡史の流れがつかみやすく理解しやすい。自作自演のシンガーソングライターと、基本的に他人作の楽曲のボーカルパートのみを歌手が担う歌謡においては役割が全然違うわけです(当たり前だけど)ただプロの作家というのは音楽的な素養が膨大なので掘り下げていくのも大変、、

変身リンダ:
山本リンダのイメチェン後の「どうにもとまらない」は1972年6月発売だから私が幼稚園の時ですね。記憶もおぼろげな時期ですが、お茶の間に東芝のカラーテレビが来たのもちょうどその頃(それまでは白黒テレビ)、リンダは強烈に印象に残ってます。70年代初頭の暗い世相の中、当時のテレビの歌謡コンテンツといえば演歌とフォーク系歌謡全盛の時代、そんな気が滅入るような暗い歌を子どもが好きになるわけなくて、テンション上がって楽しいのに惹かれるわけで、ハッキリ覚えているのがリンダとフィンガー5(あとキャロル、ダウンタウンブギウギバンド)、 リンダさんは前年に「仮面ライダー」にライダーガールズのマリ役として出演(1971年7月から同年12月まで)していてよく知ってました。仮面ライダーの14話から出演しているんですが、この14話「魔人サボテグロンの襲来」(1971.7.3放送)というのがライダー史上非常に重要な内容で、ライダー2号(一文字隼人)が初めて登場する回であり、そして初めて「お見せしよう、仮面ライダー、変身!」の台詞とともに変身ポーズを世に披露したのもこの回からです。リンダさんは美人で大柄でオーバーアクションでやたらと動き回るのでライダー同様目立っていてちびっ子にも親しまれていたんです。当時、この変身ポーズが流行していて「変身ブーム」というものがあったんですね、 変身ブームは翌1972年、仮面ライダーに本郷猛(1号)が復帰してきて、強化改造された1号が変身ポーズを披露した頃に最高潮に達し、(「ライダー、変身!」で有名な1号の変身ポーズの初出は第53話「怪人ジャガーマン 決死のオートバイ戦」(1972.4.1放送)から) ライダーのように変身して悪と戦う特撮ヒーロー番組(変身忍者嵐、キカイダー、イナズマン等々) も続々登場してTVを席巻していて、そんな中リンダさんも「リンダ・ヘンシ~ン!」で可愛い子ちゃんアイドルからセクシー路線に変身 する事になるわけなんですが、ライダーガールズの綺麗なオネーチャンが変身して、ヘソ出して腰を激しく振りながら「もうどうにもとまらないっ!」とやるんだから、幼少時の記憶にも確実に残ります。1972年にはリンダは仮面ライダーには出ていませんでしたから、 ライダー1号が戻ってきたと思ったらリンダ(ライダーガールズのマリ)も強化改造して戻って来たような印象を受けて嬉しかったんですよね確か。 私より上の世代はアイドル時代の「こまっちゃうナ」の可愛いイメージのリンダを知っていますからそりゃ度肝を抜かれた事でしょう。そうそう思い出したことがあって、 当時、ノリがよくてかっこいいなと思う曲は必ずといっていいほど作曲に都倉俊一先生のクレジットが入っているのに気づいて、テレビのテロップに"作曲:都倉俊一"のクレジットタイトルが出る度に気持ちが高揚してワクワクしていたのでした。




山本リンダ・プロジェクト:
山本リンダ復活プロジェクトの事です。
当時、リンダの所属していたキャニオンレコードは経営危機に陥っていたため、フジサンケイグループとして、キャニオンの社運をかけて売り出すべき歌手を一人だけ選び、その歌手に力を入れようということになり、リンダが選ばれたらしい。 リンダプロジェクトチームは1972年に活動を開始、当時の日本の歌謡界である歌手を売り出すために大々的なプロジェクトを組む例などはなかった模様、コンセプトを決め、それに沿って作詞家、作曲家の先生に曲作りをお願いし、衣装を工夫し、振り付けを考える。多くのスタッフが力をあわせて一つのエンターテインメントを作り上げていく。(*)プロジェクトの中心のプロデューサーは、フジテレビの吉田斉が務め、それもあって、実にテレビ時代のテレビ的な作り方をし、作詞(阿久悠)、作曲(都倉俊一)のほかに、振付の一宮はじめとか、衣装デザインの椎名アニカとかが初めから加わっていた。(*阿久悠自著より)

都倉俊一ロング・インタビューより(抜粋):
・そういう意味では、総合プロデュース第1弾アーティストは山本リンダさんということになりますか。
都倉「そう言っていいでしょうね。あれは、テレビ局のディレクター(吉田斉)から僕が頼まれたんですよ。引き受けようと思ったのはね、そのディレクターが、テレビであの子を作りたいと言ってきたから。テレビというのは、何よりもまず、ビジュアルがあるわけでしょう。それで面白いと思ったのね。リンダ自身も、可愛い子ちゃんのアイドル歌手を卒業したものの低迷している時期で“何でもやります!もう、どうにでもしてください!”という姿勢だったから、自由な発想ができました。」
・最初にどんな事をイメージされたんですか?
都倉「僕はね、リンダを絶対にイイ女にしたいと思ったんだ。どんな事をしても。だって、実際イイ女なんだよ。当時まだ22~3歳でね、スタイルは抜群だしね。そのイイ女を、ただのイイ女じゃなくて強烈な個性を持ったイイ女にしたいと思った。僕の中には、もう絵(テレビの映像イメージ)が浮かんでてね、それで、イントロがあって、メロディがあって、サビがあって、ああしよう、こうしようというアイデアが猛烈に出てきて、スコアを書いた。」
・それが「どうにもとまらない」?
都倉「そう。最初からサンバのリズムでいこうと考えていてね、サンバロックみたいなものをやりたいと。それで、イントロからアレンジまで完成した曲を阿久さんに渡して、歌詞を書いてもらった。そしたら、「恋のカーニバル」というタイトルの詞ができてきた。」

阿久=都倉による「非日常性のエンターテイメント」路線がここから始まる。テーマを決めて都倉が曲を作り、阿久悠が詞を載せていくという歌謡界の頂点のコンビによる曲作りの始まりがリンダのプロジェクトだったわけですね。

世界千夜一夜シリーズ:
このシリーズ面白いので表にしてみました。、 山本リンダのキャリアのうち阿久と都倉コンビが手掛けたのは通算20枚目のシングル「どうにもとまらない」から10作品あり、そのうちの9作品が本シリーズとなっています。それぞれにテーマがあり、椎名アニカ氏による衣装があって「〇〇リンダ」のキャッチフレーズがあるものもある。(キャッチ・フレーズに関しては本シリーズだけではなくキャニオン時代のリンダのシングルには全てにつけられていたとの情報もあり) シングル盤は見開きのジャケット(ポスターみたいにして貼るため?)になっていてリンダの衣装がわかるように全身姿が印刷されている丁寧な作り、 ただジャケットにシリーズのテーマは明記されておらず、テーマはメディア向けの新曲の発表会、およびグラビア雑誌(週刊プレイボーイ、平凡パンチ)などで宣伝文句として紹介されていた模様、だから不明なものや曖昧なものもあり詳細は今後内容が判明次第更新予定(本稿の画像はすべてネットの拾いものです)また当時はどこをどう見せるか話題になっていたんだとか、へそ出し、背中出し、太ももチラリ、シースルー、と続いて最終的に見せるところがなくなっていき「ぎらぎら燃えて」では露出なしになったんだとか(男装だから)、、 -
No.発売日タイトルテーマお国巡りキャッチフレーズ
11972/6/5どうにもとまらないアフリカン・ロックブラジル変身リンダ
21972/9/5狂わせたいのペルシャの女奴隷ペルシャ迫るリンダ
31972/11/25じんじんさせてチャイニーズ・ロック中国-
41973/2/25狙いうちコサックダンスロシア激感リンダ
51973/6/10燃えつきそうサンバ・ロックブラジル-
61973/8/25ぎらぎら燃えてフラメンコ、タンゴスペイン燃焼リンダ
71973/12/10きりきり舞いフレンチ・ポップス(?)フランス 今、さわやかリンダ
81974/4/10真っ赤な鞄四畳半バロックドイツ -
91974/7/10奇跡の歌ジャックと豆の木--
101974/8/25闇夜にドッキリ-- ブギウギリンダ

1.どうにもとまらない
「リンダをイイ女にしたい」でサンバのリズム、こうなるという発想がもう最高、パーカッションのみのイントロは何度聞いてもゾクゾクします。ドラム、コンガ、カウベルだけで構成される原始的サンバのリズムの楽曲はやはりストーンズの「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」(1968年12月発表)を連想してしまいます。ミックジャガーをして「この曲を(ライブで)演ると何かか起こるんだ」というクレイジーサンバのリズム、そして実際起きてますね(オルタモントの悲劇)、それほどに人々を興奮、狂乱状態にさせるアフログルーブ、この「悪魔を憐れむ歌」のイメージが都倉さんにあった事は間違いないとみていいでしょう。ドアーズの「タッチ・ミー」(1968年12月)も入ってますね。 70年代初頭の日本でこの都倉さんのセンスは突出しています。サンバ歌謡と呼ばれるヒット曲はそれまでにもあったが、サンバの歌謡じゃないんだよね。サンバ+ロック+歌謡、そして日本のロック第1号でもある、と私は捉えています。 「日本のロック」に明確な定義はないですが、ただ単にロックのリズムに日本語の詩をのっければいいというものじゃなくて、音楽として魅力的に成立していること、独自の世界観を持ち商業的にも成功していること等も重要なポイントです。もしリンダ以前に日本のロック(もしくはロックンロール)があるというなら教えて頂きたいものです。ロックなんだからダサいのは認められないよ。 1972年は12月にキャロルがデビューした年でもあるので日本のロックにとって重要な年であったことになります。翌1973年にはダウンタウンブギウギバンドがデビュー、同時多発的に新しい傾向の音楽が生まれる要因はやはり人々の潜在的な需要があるわけで偶然のようにみえますが時代の要請でもあるわけです。70年代初頭(ベトナム戦争の長期化、学生運動の過激化)ですからジメジメした時代の空気を払拭したいといった感じでしょうか、、もちろん景気の良し悪しにも左右されます。
性衝動を抑えきれないこの曲の女性像のモデルは不明、この段階で阿久悠にはまだシリーズ化の発想はなかったのかもしれません。 オール日本語詞である点でも画期的です、唯一「カーニバル」という横文字が入りますが、カーニバルはもともとこの曲のテーマであったわけだし、カーニバルという響きが持つ「ゾクゾク感」はこの曲のイメージ(「謝肉祭」や「お祭り」ではそぐわない)にマッチしていて外せない言葉なのでしょう。(タイトル変遷:「恋のカーニバル」→「熱い心をあげようか」→「どうにもとまらない」) 歌詞中に5人もの男性が登場する恋唄も他に類を見ない「器量のいい子」、「やさしいあのひと」、「港の誰か」、「広場の誰か」、「木かげの誰か」と、嗚呼リンダがどうにもとまらない。1972年6月

変身リンダ発声法:
都倉「「こまっちゃうナ」のイメージを変えるために、特訓の末、発声法を変えました。すでにできあがっている歌手にはムリなことですが、彼女の場合ゼロに近い存在でしたから、バラバラにして作りなおしていける魅力があったわけです。」
リンダの舌っ足らずな歌い方だと言葉がリズムに乗らない、その要因は母音が足らない事だと気づいた都倉がリンダに母音を強調させて歌わせてみたら途端にノリが良くなったという、
~"うわさをしんじちゃいけないよ"ではなく"うぅ、わぁ、さぁ、をぅ、しぃ、ん、じぃ、ちゃぁ"である。つまり日本語を英語風に発音させたのである。とたんにノリがよくなった。彼女もそれを感じたらしく、歌全体が生き生きとしてきた。(都倉俊一著「あの時、マイソングユアソング」から)
この特訓こそ日本語のロック誕生において歴史的な意義を持つものです。この時、都倉俊一(23才)、山本リンダ(21才)、 巷で日本語ロック論争(1970年、ロックは英語で歌うべきか?それとも日本語で歌うべきか?議論)なんてものがあるけど、私はあの時点で内田裕也が指摘したこと(日本語とロックの結びつきに成功したとは思わない)は非常によくわかるし、松本隆もそれは認めている。論争は日本語と英語のチャンポン詞を歌うキャロルの登場によって論争自体不毛なものとして終息してしまいますが、キャロルはもともと英語の詞を歌っていて、日本語詞に取り組むのはレコード会社の意向を受けてからですから1972年でもデビュー直前の後半の時期、日本語によるロックの確立において、リンダの方がキャロルより早いんです。(キャロル:1972年6月結成、12月25日デビュー)
都倉とリンダ、そして奇しくも同年に矢沢とジョニーが取り組んだこの「英語の発音のように」歌う唱法は、その後、意味よりも語感を重視しすぎた結果、サザンの桑田などだんだんと「何を言ってるのかわからない歌」になっていきますが(それはそれで否定はしないけど)、、 リンダの場合はいくぶん美空ひばりっぽい演歌テイストのドスの効いたトーンで、日本語の言葉がハッキリと聞き取れる唱法であり、「言ってることがわからない」「日本語はロックのリズムに乗らない」といった日本語の課題もクリア、語感を重視するが言葉も崩さない、媚びない、私はそこにたまらない魅力を感じるのです。これが歌謡ですよ、プロフェッショナルの仕事、ハッキリとした日本語がかっこいい、この楽曲こそ「日本のロック第1号」だと思う理由です。西洋風化していく日本人もいるなか、ハーフの女性がこの唱法をやったというのも面白い。(矢沢もソロ以降、演歌チックな同路線を辿ることに)もちろんリンダ式唱法も今日まで日本のロックに受け継がれています。

「どうにもとまらない」

映像は1972年(昭和47年)第23回NHK紅白歌合戦より、1972.12.31
NHKから"おヘソOK!"の許可を得た山本リンダさん


うわさを信じちゃいけないよ 私の心はうぶなのさ
いつでも楽しい夢を見て 生きているのが好きなのさ
今夜は真赤なバラを抱き 器量のいい子と踊ろうか
それともやさしいあのひとに 熱い心をあげようか
ああ蝶になるああ花になる 恋した夜はあなたしだいなの
ああ今夜だけああ今夜だけ もうどうにもとまらない

港で誰かに声かけて 広場で誰かと一踊り
木かげで誰かとキスをして それも今夜はいいじゃない
はじけた花火にあおられて 恋する気分がもえて来る
真夏の一日力ーニバル しゃれて過していいじゃない
ああ蝶になる ああ花になる 恋した夜はあなたしだいなの
ああ今夜だけ ああ今夜だけ もうどうにもとまらない

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一


第14回日本レコード大賞:
1972.12.31、NHK紅白の数時間前、千代田区丸の内の帝国劇場で行われた第14回日本レコード大賞出演時の映像、こちらは完全ヘソ出しVersion(シャツの結び目が短い)、作曲賞受賞で都倉先生も登場


2.狂わせたいの
まず、冒頭のギャギャギャギャギャギャギャギャ ギャギャギャギャギャギャというせり上がる轟音ギターに奮える、これは歌謡曲なのか?こんな歌謡曲ちょっとないよ。都倉さんはリンダを手掛ける際にロックを作りたい欲求に駆られていたらしく、その鬱憤が炸裂したようなスリリングな楽曲、終始打ち鳴らされる不穏なカスタネット(?)の響き、挑発的、煽情的で狂気を孕んだガレージ色の強い曲調に最初に連想したのがストゥージズ!、ピンクレディーが日本のセックスピストルズだとしたら日本のイギーポップに相当するのが淫力魔人リンダちゃん、ガラスの破片の上でのたうち回り「I Wanna Be Your Dog(おまえの犬になりたい)」(1969年発表)、を歌うイギーポップにも通じる世界観。「ペルシャの女奴隷」というテーマも秀逸、「展覧会の絵」などの楽曲で有名なロシアの作曲家・ムソルグスキーの遺作オペラ「ホヴァーンシチナ」に「ペルシャの女奴隷たちの踊り」という楽曲があり、これがイメージの発端になっていると思われます。 ペルシャ(現在のイラン)は千夜一夜物語の舞台でもあり「からだをつないだ鎖をはずしてどこかへ連れてって」と歌われる女奴隷の解放がテーマの物凄いハードロック歌謡、アラビアンナイトでは女奴隷は聡明で美しいものとして描かれていたようです。 また印象的なギターの旋律はマリンバに置き換えられピンクの「サウスポー」のサビの箇所で流用されていてこちらは大ヒットしていますね。イギーポップ→狂わせたいの→サウスポー→甲子園と捉えると面白い流れ、米米クラブのライブでも定番、現在でも全く古びない異様な興奮状態を呼び起こす魅力を持っています。 B面の「もっといいことないの」もロックしてていいですね。こちらは「No Fun(つまんねーな)」が発想のヒントでしょうか、そしてフィンガー5の「個人授業」へと発展していきます。いやホント阿久と都倉は素晴らしい。NHKでは歌唱禁止だったらしい。なおこの曲「狂わせたいの」は「人造人間キカイダー」24話「魔性の女?? モモイロアルマジロ」においてモモイロアルマジロの人間態(謎の女)が夜の街で近付いてくる男を狩る際(おっぱいで窒息させてから額に濃厚なキスをする)の挿入歌として使用されている。(1972.12.23放映)時期といい「くるくるくるくるくるくる...」というかけ声といいモモイロアルマジロのモチーフにリンダのこの曲があったとしか思えないんだが。

「狂わせたいの」
ぼやぼやしてたら私は誰かのいいこになっちゃうよ
これほど可愛い女は二度とはお目にはかかれない
あなたに抱かれてかげろうみたいにゆらゆらゆれるのよ
時には涙をやさしく流してすがってみせていい

私は恋の女 いつでも恋のどれい
好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
からだをつないだ鎖をはずしてどこかへつれてって
必ずすてきな夢みる気分にあなたをしてあげる

ぼやぼやしてたら私は誰かのいいこになっちゃうよ
欲しけりゃ欲しいとこころとからだではっきり云ってくれ
一つの国でも私に賭けても決して損はない
今日から毎日花園みたいなくらしが出来るのさ

私は恋の女 いつでも恋のどれい
好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
真赤に色づく私のくちびる こころを焦がすのよ
この目を見たならあなたは二度とは忘れてくらせない

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一




3.じんじんさせて
日中国交回復(1972年9月)にちなみテーマはチャイニーズ・ロック、冒頭のチェレスタによる中華風メロディはオリエンタルリフといい西洋人がアジアのオリエンタルなイメージを表現する際に用いられるフレーズで中華風といっても中国の音楽ではなく西洋由来のフレーズ、(時に日本をイメージした楽曲でも用いられますが日本人からすれば違和感しかないが、、)オリエンタルリフのポピュラー音楽への導入はカール・ダグラスの「カンフー・ファイティング(Kung Fu Fighting)」が1974年なので、日本ではもちろんのこと世界的にも最初期の使用例ではないだろうか、、オリエンタルリフに続いてアルバート・ケテルヒーの管弦楽曲「ペルシャの市場にて」(またペルシャ!)引用のサックス部があり、ブンブン唸りをあげるベースラインと高速ドラムによる強力なビートに変身リンダ発声法による超絶高慢な女性像が歌われる、(テーマが中国なのでモデルは唐代の皇妃・楊貴妃でしょうか、)強力なグルーブを持つロック歌謡で同時期のディープパープルのハイウェイ・スター(Highway Star 1972年3月、BPM170)に通じる疾走感が爽快、誰も追いつけないオレ、誰も口説けないアタシ、という内容の歌詞もどことなく似てますね。リンダの楽曲では最速のBPM162、誰もリンダの音速に追いつけない、 ジャケットの髪をアップにして黒いドレスに身を包んだリンダさんも美しい、シリーズ中最高傑作。

「じんじんさせて」
ひとりふたり恋の相手は星の数
誰も彼も花を抱えて戸を叩く
悪い気はしないけど 眠らせて
望むものは全てその手に抱くがいい
好きな時に好きな所へ行くがいい
この世界 君のためあげるという

ダメダメ 女を口説くのは
どこにもあるよな手じゃダメよ
心がじんじん痺れてみたい

朝も昼も夜も構わず押しかけて
愛で金で地位であれこれ口説くけど
それじゃまだ燃えないわ諦めて

ひとりふたり恋の相手は星の数
誰も彼も悪い男じゃないけれど
抱かれてもいいなんて思えない
男嫌いなんて言われて困るけど
今はそっと1人ベッドで眠るだけ
口づけも唇はやめにして

ダメダメ 女を口説くのは
どこにもあるよな手じゃダメよ
心がじんじん痺れてみたい

前に膝を着いて この手に口づけて
大の男 涙流してすがるけど
それじゃまだ燃えないわ 諦めて

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一


4.狙いうち
この世は私のためにある(ドン!)という巷のフェミニストがかわいく思えるほどの独裁的女性像の歌、 「弓をきりきりイ~」「心臓めがけェ~」「逃イ~がさない」の迫力ある狙い撃ちの描写は野球の応援歌として用いられているほど、 阿久悠による高飛車な女性像はシリーズ中、段々とエスカレートしていってこの曲で頂点を極めます。 モデルはロシア史上最強女帝と称されるエカチェリーナ2世でしょうか、跡継ぎを産むことを大義名分に愛人を作り、出産を繰り返し、愛人が途絶えることなく有名なものだけで12人(後世にその数300人とも)、しかし男には一切政治に関与させず、クーデターを指揮して夫である前皇帝ピョートル3世を幽閉(おそらく殺害も指示)、みずからロシア皇帝(大帝)として君臨、「玉座の上の娼婦」と言われたという、ワンピのボア・ハンコックとシャーロット・リンリンを足したような怪物女、 もはやセクシー路線でもない女王様路線。 コサックダンス風の楽曲というのもドイツで音楽を学んだという都倉さんの経歴由来のものでしょうか、ロシア民謡の流れも汲む歌謡の世界はホント奥が深いですね。この曲のベース(モチーフ)はさっぱり分かりません。 リンダさんの衣装はシースルーブラウスとバックにスリットの入ったパンタロンでスリットはお尻付近まで割れていてシングル盤ジャケットでも確認できるようにお尻を前面に向けたピンナップとなっています。 都倉が自ら「ウダダ、ウダダ」と仮に歌ったデモテープを阿久悠へ送ったら、送り返された歌詞が「ウララ、ウララ」となっていて都倉さんを仰天させたというエピソードも有名、オリジナル音源でのリンダさんは「ウダダ、ウダダ、ウダウダで」と歌っているように聞こえます。まあこの曲は女王様ウラウラぁ~!な歌詞のインパクトが絶大、リンダに狙われて石化。(ウラー:ロシア語で「万歳」の意)

「狙いうち」
ウララ ウララ ウラウラで
ウララ ウララ ウラウラよ
ウララ ウララ ウラウラの
この世は私のためにある

見ててごらんこの私 今にのるわ玉の輿
磨きかけたこのからだ そうなる値打ちがあるはずよ
弓をきりきり 心臓めがけ 逃がさない パッと狙い撃ち
神がくれたこの美貌 無駄にしては罪になる
世界一の男だけ この手にふれてもかまわない

ウララ ウララ ウラウラで
ウララ ウララ ウラウラよ
ウララ ウララ ウラウラの
この世は私のためにある

女ひとりとるために いくさしてもいいじゃない
それで夢が買えるなら お安いものだと思うでしょ
弓をきりきり 心臓めがけ 逃がさない パッと狙い撃ち
世界中のぜいたくを どれもこれも身にまとい
飾りたてた王宮で かしずく男を見ていたい

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一




5.燃えつきそう
「どうにもとまらない」からちょうど1年後の夏歌で再度ブラジル回帰、サンバ・ロックとあるがロック色はなく、より本格的なサンバ(サンバ+歌謡)、 モデルは不明ですが「その気になったらとまらない」「うわさはほんとだよ」「私を嵐にもまれる小舟のようにして」などの歌詞から「どうにも」の女性と同一人物、性衝動を隠そうともしない本能に忠実な女性像、満月の夜にその性衝動はピークに達し、リンダさんのはぁ・・・はぁ・・・アハ~ン・・・あえぎ声息づかいまで聞こえてきそうな「どうにもとまらない」の続編ともいえる作品。 特筆すべきはサンバ・ビートのドラミングを確立した一人ウィルソン・ダス・ネヴィス(Wilson das Neves)の起用で本格的な日本語のサンバとして楽しめます。 この辺の経緯はピンクの夏歌「波乗りパイレーツ」でのビーチボーイズのコーラス起用とも似ています。楽曲を作る際に本家を使っちゃう都倉さんらしい発想、もっとも都倉さんのような先進的で多岐にわたる楽曲を演奏させられる当時の日本のミュージシャンたちの苦労も並大抵のものではありませんね、「君、サンバ演って、次の曲はボッサ調、パープルのペイスみたいなドラムで、ストゥージズの歪んだギターで、、、」とか言われてそう簡単にできるものじゃなし、、天才都倉がプロデューサーとしてミュージシャンを選定し使えるような立場にあったからこそ一連の贅沢なリンダシリーズの「音」ができあがったんだとも思うのです。 ブラジル、リオ録音、 B面のボサノバ歌謡「行きずりの二人」も心地よい。


6.ぎらぎら燃えて
燃えてる系が続きます。後のラスティックを感じさせるマカロニウェスタン調のイントロ部はかっこいいが聴いてて少々暑苦しいか、、リンダの歌唱も力が入りすぎ。タイトル、燃えさかる炎(炎帝)をバックにしたジャケット、「(黒ひげの)裏切り許さぬはげしい気性」「火の玉みたいなこの胸をつかんでやけどをしてごらん」「情熱がぎらぎら燃えた」といった歌詞も、何から何まで熱い熱い熱い熱い熱風リンダ、歌謡史上もっとも熱い作品ではないでしょうか、モデルはスペインとくればやはり「カルメン」でしょう(カルメンとは19世紀フランスの作家プロスペル・メリメの小説、またはヒロインの名前)、激しく恋に燃えるが心変わりしやすく危険なジプシーの女(ボヘミア人)、このテーマは後にピンクレディーでも取り上げていてピンク版「カルメン'77」はご存じ大ヒット、リンダ版はカルメン'73ということに。露出なしの黒ずくめ衣装もかっこいいです。ワンピのエースのテーマ、ではないけれどイメージの元ネタなんじゃないかと、わりと本気で思う。


7.きりきり舞い
前作の暑苦しさの反動からか、可愛らしいフレンチポップス、前年(1971年)に大ヒットしたミシェル・ポルナレフの「シェリーにくちづけ(Tout,tout pour ma chérie)」を彷彿とさせるTuTu TuRuRu TuTuTu TuRuRu・・・・というスキャットで始まる。 この曲からリンダの発声法がさらに変化し変身リンダ発声法の第2期はフレンチな「ささやき唱法」になります。ウィスパーボイスによる歌唱の可愛らしい歌ではあるけど、「ゴメンネ、ゴメンネ」と言いながら「たいくつな時は死にそうになる・・・」「突然、悪いささやきが聞こえ私はあなたを捨ててしまう・・・」という身勝手というか理性のブッこわれた小悪魔系女性像が可笑しい。怖い事を可愛らしいウィスパーボイスでサラリと歌わせてしまう阿久・都倉はホント考えることが面白い、モデルは「素直な悪女」のブリジット・バルドーでしょうか、自由奔放で衝動的に突飛な行動をとって男を振り回すちょっと面倒なフランス映画のヒロインが描かれています。ウィスパーボイスのフレンチポップは日本だと渋谷系(1991年~)アーティストのカヒミカリイやCharaなどが有名ですけど、日本初はリンダさんのこの曲じゃないでしょうか。実は阿久さん自身も気に入っていたというこの曲はミュージシャンにも人気で、歌謡マニアでもある近田春夫さんのカバーが有名。リンダの振付がわかる当時の映像はかなり稀少(↓)だと思います。

「きりきり舞い」


はらはらさせてごめんね
いい子でなくてごめんね
浮気ぐせはなおらないのよ
夜風が甘いだけでも
祭が近いだけでも
からだ中が燃えてしまうの

たいくつな時は死にそうになるのよ
突然悪いささやききこえ
私はあなたを 捨てて 捨ててしまう
きりきり舞いであなたの
人生さえも狂わせ
悪いことをしたと思うわ

はらはらさせてごめんね
いい子でなくてごめんね
だけどそれが魅力なのかも
油断をしたらするりと
どこかへとんで行きそう
だから強くつなぎとめてよ

たいくつな時は死にそうになるのよ
突然悪いささやききこえ
私はあなたを 捨てて 捨ててしまう
きりきり舞いをしている
あなたがかわいそうだわ
だから駄目といったじゃないの

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一


8.真っ赤な鞄
バロック音楽を取り入れた実験的な作品、これも他に類を見ない歌謡曲だと思います。都倉さんはもともとベースにきちんとクラシック音楽があるのと同時代の膨大な音楽体験があるので彼の音楽を評価するには評価する側にも相当な素養が求められます。阿久さんの千夜一夜物語しかり、この二人の世界はある意味ビートルズ以上に奥深い(いまだ正確に評価できる人はいないんじゃないか)と思います、基本的に自分達で演奏もこなさなければならないバンド形態とプロの作家では比較にならないか、、


9.奇跡の歌
世界千夜一夜シリーズ最終作品(「真っ赤な鞄」で終了との説もあるがハッキリしない) アニメミュージカルファンタジー「ジャックと豆の木」の挿入歌、 ジャックと豆の木 は、1974年7月20日に公開された 日本のミュージカルアニメ映画作品、 音楽構成を阿久悠が担当しており、Youtubeでも閲覧可能。 リンダさんは、この映画で雲の上の王国のマーガレット王女の声を担当しています。ちびまる子ちゃん曰く「奇っ怪な歌」


10.闇夜にドッキリ
都倉先生はよく自作曲の再利用をやりますがこれはピンクの「UFO」の元ネタ、同時期にもっとそっくりな「白い羽根の勇士 / ザ・キャラクターズ」(1974)という曲も存在する。稀代の名曲「UFO」が完成するまでの変遷が分かる興味深い楽曲。
B面の「きっとまた」は「行きずりの二人」以来の素敵なボサノバ歌謡、今回は第2期の可愛らしいウィスパー唱法で歌われていてより曲調にフィットしてます、10作続いた阿久=都倉コンビともしばしのお別れ。



リンダ・リンダ・リンダ
リンダさんの第3次ブームは1980年代の後半になってから、子供の頃にリンダを体験した人たちが大きくなって、米米クラブ(カールスモーキー石井、1959年9月生まれ)がライブでカバーしたり、クラブでリバイバルヒットしたり、決定的なのがちびまる子ちゃん(さくらももこ、1965年5月生まれ)に出てきて、まる子のリンダ歌唱がアニメで全国的に放映されてからでしょうね。 (第66話「まるちゃん お花見に行く の巻」1991.4.7放映)
70年代前半なら今日のように娯楽も多様化していないし、家にはテレビしかなくて日本に生まれてみな似たような体験をしていて、それで大人になってバンドやったりDJやったり漫画描いたりしてるわけで、再燃するのも必然といえば必然、それがさらに下の未知の層に広め支持を得ていく、優れたものはこうやって残り続けるんでしょうね。(リンダさんの3回目のブームは仕掛人がいたわけではなく、70年代の子供たちによる自然発生的なものだから)、今思えば、70年代はテレビの時代でした。全国的にカラーテレビが普及し始めた時期でもあり、お茶の間の中央に据え置かれ、家族で視聴するという生活スタイルがどこの家庭にもあった。実際、アニメもドラマも歌謡も質の高いコンテンツが多かったように思います。スターはスターらしく輝いていたしレコード大賞も紅白歌合戦も年末年始の国民的行事であったような時代がありました。
阿久は79年に休業を宣言、80年以降は主軸を演歌に移し、都倉は日本を離れ活動の拠点をLAに移しミュージカルの道へ進み、それ以降は阿久と都倉の黄金コンビによる作品は見られなくなっていきます。 私もその頃にはテレビとは距離を置いてましたが、私の中でテレビの価値が徐々に下がっていったんでしょうね。 きっかけは日比谷野音のステージ上で泣き崩れたキャンディーズかもしれないし、小雨の降る後楽園球場で震えながら解散コンサートを行ったピンク・レディーかもしれない、そういうの観て目まぐるしく登場する新しいアイドルを追いかける気には到底なれないし。世相を知ろうとしてもロッキードで総理大臣をしつこく叩き続けるニュースにもうんざり、特にニュース報道における作り手側の作為的な意思が透けて見えてきて、テレビ電波を負のエネルギーとしか感じられなくて冷めてしまったというのもあります。ただ阿久悠や都倉俊一がいたように、作り手の夢を乗せた電波を発信していた時期も確かにあったと思います。

阿久悠「都倉俊一と組んでの、非日常性のエンターテイメント路線というのは、過去に相当な実績があった。ぼくらはそれを、テレビ時代の歌とも言い、歌のアニメーション化とも呼び、二人が開拓して、発見した路線だと、自信も誇りも持っていた。」(夢を食った男たち)




参考サイト:
都倉俊一ロング・インタビュー
Musicman’s RELAY「都倉俊一」
近田春夫が選ぶ「文化庁新長官・都倉俊一の名曲ベスト10」
Linda Yamamoto Gallery
仮面ライダー・マリ
山本リンダの「恋のカーニバル」が「どうにもとまらない」に変わった経緯
人造人間キカイダー 第24話「魔性の女?? モモイロアルマジロ」レビュー
インタビュー Vol.44 華麗なるデビュー50周年を迎え更なる挑戦を!山本リンダ
じんじんさせて / 山本リンダ
山本リンダキャニオン・イヤーズ
本日、3月4日は山本リンダの誕生日~ミノルフォン時代のリンダは必聴
テレビ探偵団「山本リンダ」(1991年09月08日)
言葉の魔術師、阿久悠の80年代仕事 — 円熟を極めた素晴らしき作品群
悪魔を憐れむ歌
Sympathy for the Devil / The Rolling Stones(1968)
Touch Me / The Doors(1968)
I Wanna Be Your Dog / Stooges(1969)
ホヴァーンシチナ
Modest Mussorgsky - Khovanshchina: Dance of the Persian Slaves
ペルシャの市場にて(In a Persian Market)
Highway Star / Deep Purple(1972)
エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
ジャックと豆の木 (1974年のアニメ映画)
シェリーに口づけ / ミッシェル・ポルナレフ
きりきりまい / 近田春夫&ハルヲフォン
ジョニー大倉と昭和ジャズ・ソングの大御所を繋ぐ時代を超えた歴史的歌唱法とは?
再評価! ジョニー大倉の功績を考える
「ちびまる子ちゃん」に登場した芸能人のスレ。
「リンダ リンダ」の歌詞の真相~ヒロトが描いた人を想う気持ちと願い
リンダ リンダ / ザ・ブルーハーツ
リンダ(有名人)
昭和47年紅白歌合戦全篇
【1972年ヒット曲】昭和47年の年間シングルランキング100
新宿プレイマップ 1970年10月号 日本語ロック論争

2021/06/11

pink beat '77

「渚のシンドバッド」
ピンク・レディーの4枚目のシングル「渚のシンドバッド」を始めて聞いたのはたぶん「ドリフ」か「夜ヒット」だったと思います。1977年の6月、ハワイで雑誌の撮影があったらしくちょっと灼けた肌にライトがあたってほんのりピンク色、そして青い渚を連想させるキラキラのスパンコールの衣装に身を包んだ2人。YouTube↓に上がってますがこの映像を観てビックりして。当時は何て素敵な曲なんだと思いました。 街中(まちなか)のレコ屋までレコード買いに走ったはじめてのレコードだったりします。何しろこんな曲は聴いたことがなかったから。 ついでに好きだったシミケン(清水健太郎)も買ってポータブルレコードプレイヤーは親に買ってもらってシングル盤を漁るようになったきっかけが渚のシンドバッド、こういう人多いんじゃないかな。 キタ━━(゚∀゚)━━ッ!といった感じのロックンロール歌謡、この楽曲の魅力は 軽快で弾むようなロックンロール調のテンポにアッアッアッアーッで始まるミーちゃんとケイちゃんの可愛くてセクシーな美声ハーモニー、 とくに「♪くちびる~ぬすむはやわざは~」からミー(高音)とケイ(低音)のハモりが強調され、 ベースラインがズンズン駆け上がっていって「♪セクシ~あなたはセクシ~💗」で絶頂に到達する、ここの展開にこちらが射精しそうに悶絶しそうになってしまって 、ロックもディスコも知らないガキ(10才)にはこんなにウキウキ楽しくイキそうになる音楽との出会いに 衝撃を受け快感を覚えたのでした。同時期のラモーンズや後のパワーポップにも通じる革新的なシングルではないでしょうか、日本の歌謡界の最高峰のシングルだと思ってます。ここからピンクの人気に火がつき社会現象となり、ピンク・レディーは不世出の超がつくスターになります。そうそう当時は街中(まちなか)では常に音楽が流れていて、音楽をみなで共有していた。商店街で海水浴場でラジオから音楽が流れ、道端で小さな5~6才の女の子が「あなたはセクシィ♪」のポーズをやりながらイキそうになったりピンクを踊ったりもよく見られた光景でした。

「渚のシンドバッド」


アアア アアア・・・・・・
アアア アアア・・・・・・アアア渚のシンドバッド
ここかと思えばまたまたあちら 浮気なひとね
サーフィンボード小わきにかかえ 美女から美女へ
ビキニがとってもお似合いですと 肩など抱いて
ちょいとおにいさん なれなれしいわ

くちびる盗む早わざは
うわさ通りだわ あなたシンドバッド
セクシー あなたはセクシー
私はいちころでダウンよ
もうあなたに あなたにおぼれる

波乗りあざやか拍手をあびて キッスの嵐
あちらのパラソルことらのパラソル ウインク投げて
夜ふけになったらあなたの部屋へ しのんで行くよ
ちょいとおにいさん いい気なものね

うっとりさせるテクニック
腹が立つほどよ あなたシンドバッド
セクシー あなたはセクシー
私はいちころでダウンよ
もうあなたに あなたにおぼれる

作詞:阿久悠
作曲・編曲:都倉俊一
ドラムス:宗台春男(exザ・バロン)
ギター:津村泰彦(exザ・ダウンビーツ)
ベース:武部秀明(千原秀明、exアダムス)
キーボード:羽田健太郎
リリース:1977年6月10日
レーベル:ビクター音楽産業
価格:600円
最高位:1位(8週)


タイトル決定会議:
阿久「夏のメルヘンにしたいね・・・・夏の冒険物語・・・・」
都倉「やはり夏は渚ですかね・・・・」
阿久「じゃあメルヘンはシンドバッドにしようか」
阿久&都倉「渚のシンドバッド!!」
え?二人にしか分からない会話ですが・・・

世界千夜一夜シリーズ:
千夜一夜物語(アラビアンナイト)というのは千夜と一夜(1001)の夢物語を集めた膨大な説話集で原型は古くサーサーン朝(ササン朝ペルシャ)時代にまで遡る。有名な説話は児童向けに翻案されて親しまれている。(wiki)
シンドバッドというのは馴染みが薄くてよくわからなかったけど(アラビアンナイトを題材にした音楽なんて聞いた事がない) 日本の渚にシンドバッド(アラブ人?)はいないし、あなたの部屋にしのびこんだりしない。
これは山本リンダのプロジェクトで阿久と都倉の二人がやってた「世界千夜一夜シリーズ」の続編でもあるんですね。ありえない世界観なわけです。
阿久と都倉は「"世界"千夜一夜シリーズ」と銘打って夢物語を題材に世界を巡り楽曲を作っていく試みをやっていたようで、 リンダの「どうにもとまらない」はリオのカーニバル(サンバ)、「じんじんさせて」は中国、「狙いうち」はロシア民謡、「ぎらぎら燃えて」はスペイン(フラメンコ)、というふうにつまり世界各地の音楽に阿久が書くありえない世界観の詩を載せていく(ブッとんだ楽曲になります)、そうやって世界中の音楽(リズム)を歌謡曲に取り混んでいくという試み、渚のシンドバッドは夏だからサーフィン、サーフィンといえばビーチボーイズ、つまりアメリカの60年代のサーフミュージックの歌謡的解釈であったりするわけです。さすが...、というかそれをやれちゃうって凄いよこの二人

波乗りパイレーツ:
都倉先生は高校時代に影響を受けたバックコーラスを従えた本格的なビーチ・ボーイズサウンドをピンクでやってみたい、とずっと考えていたんだとか。 しかし、77年時点では「コーラスをつけるより、2人をメインに出した方がよい」と考え「渚のシンドバッド」を提供したと述懐しています。 この本格的ビーチボーイズ・サウンドは2年後の79年の夏のシングル「波乗りパイレーツ」で実現します。 驚いたのはB面のUSA吹込盤と銘打たれた同曲のコーラスでなんと本物のビーチボーイズのメンバーが参加(ブライアン・ウィルソン、カール・ウィルソン、マイク・ラヴ、ブルース・ジョンストン)1979年でしょ、これすごいことなんですよBB5ファンなら涙もの、

ビーチボーイズですよ、ブライアン・ウィルソンですよ

なぜならビーチボーイズのブライアンウィルソンは1960年代の後半以降長らく音楽活動できる状態になく精神治療の寝たきりの身と伝えられており、公の場に姿をあらわす事はまずなくて、ビーチボーイズの活動にもブライアンは参加してなかったから。(1970年代においてのブライアンは廃人同様で復帰は絶望的とみられていた。ブライアンがソロとして奇跡的に復活したのはずっと後の1988年以降)そしてブライアンの高音ファルセット(ウーウーウーの箇所)はファンなら聞き分けられるほど特徴的ではっきりとわかる。ブライアンがレコーディングに参加してくれるなんてタイミングよかったんですかね、それともピンクの全米デビューが1979年5月だから、知ってて気に入ってくれてやる気になったのかな、ブライアンですら元気になるピンク・レディー、都倉さんナイスです。




ピンクのビート
子供たちに人気があったのはなぜか?:
元来、女性アイドルのターゲット層は中高大学生から社会人の若い男子であったはずで、ピンクも当初はそうだったんですが オヤジ目線のセクシー路線は確かに話題性にも寄与するが、ピンクの本質はそこじゃない(それもあるけど) 実際は子どもたちに爆発的な人気となる、しかもとりつかれたようにピンクのマネして踊り出した主層は「女の子」なんです。
後年、都倉は「ピンクレディーのどこが子供たちを刺激したのかいまだにわからない」と語ってますが、 ピンクが当時の(70年代半ばの)他の歌手と違うのは、歌唱重視(ノレない)とビート重視(ノレる)の差じゃないかと思います。
都倉は1948年生まれ、外交官の息子で子供時代をドイツで過ごし、欧米の文化圏でロックンロールに接しており、エルヴィス、ビートルズ、ローリングストーンズ、ビーチボーイズのビート感覚を自然と体得していた。これが結構大きいのではないかと、
それまで日本人好みと思われていた情緒に訴えかける「聴かせる歌謡」と、リズムで身体に訴えかける「踊らせる歌謡」の差異ではなかろうかと思います。子供は正直なもんで楽しいと身体が勝手に動き出す。踊りかたのお手本をピンクの二人が示してくれてる。(小学校の時、うちのクラスの女子は100%踊ってました、誇張なくホントに100%、男子は恥ずかしいのでやらない)
知ってる人は知ってると思いますが都倉さんが70'sに作った楽曲群は80年代以降も(おそらく今日でも)クラブではリバイバルヒットしてるんですよね。音もかっこいい。「踊りたい」に理由はないんですビートなんですよ。
女の子の(というか人間の)「歌って踊って(ちょっとセクシーな私を)見てもらいたい潜在欲求(原初的欲求)」を無意識のうちにつかんでしまったのがピンクのビートだったりするわけです。女子的に自身がヒロインになったかのような夢物語の爆音の渦の中にいる快感は相当気持ちいいでしょ。

Victor vs Sony
ビクター・レコードとCBS Sonyはどちらも親会社が電気機器メーカーで VictorとSonyといえばビデオテープの規格を巡るVHS対ベータマックス戦争 が有名ですね。
ピンク登場以前に日本の歌謡界を席巻していたのがCBS Sony系のアーチストでした。 CBS Sonyは新進気鋭のレーベルでそれまでの演歌やフォーク系の歌謡とは一線を画す 和製ポップス路線で一歩リード、良質なヒット曲を量産してたのがCBS Sonyです。
そんな中、ビクター・レコードから登場したピンク・レディー、これに対抗したのが酒井正利プロデューサー率いるソニー軍団だったわけです。
酒井正利さんは阿久悠(実質的なピンクのプロデューサー)をライバル視していたらしい。 歌謡界は、ピンク軍団(阿久悠、都倉俊一、ピンク・レディー) VS ソニー軍団(酒井正利、阿木曜子、宇崎竜童、キャンディーズ、山口百恵)といった構図になるのでした。

キャンディーズ:
ラン、スー、ミキ(其々ピンクより3コ上、1コ上、2コ上) キャンディーズは大人化計画によってセクシー路線強化、77年3月リリースの作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎による「やさしい悪魔」はピンクを意識してる事は誰の目にも明らかで網タイツにゴスロリ服でデビルサイン、見せて聞かせる音楽としては非常に完成度の高いエンターテインメント・コンテンツだと思います。ピンクより一歩進んでる感すらあった。(歌詞中の「私を虜にする悪魔」とは阿久悠の事かもしれません) だからピンクが「渚~」を出した次はどんなエロい路線でくるのか子供ながらドキドキしてましたが「暑中お見舞い」のシングルを出した矢先に「普通の女の子に戻りたい!」と衝撃的な解散宣言を発表するのでした。 ピンクとの対抗路線を期待していただけに え、白旗上げたのかな?と私には映りましたが、、、
そして、この解散宣言がきっかけになって同情というかファンの解散を惜しむ熱意により一大キャンディーズブームが沸き起ります。(といっても当時はピンク旋風のさなかで、小学生は圧倒的にピンク応援で中高生以上のアイドル好き男子がキャンディーズ応援のイメージです、たぶん)
また当初は、77年9月末に解散と言っていたのに翌年の4月初までの活動を続けていて、子供ながら不思議でしたが、これは決して 炎上商法などではなく(ソニーがそんなことしない)、なかなか難しい問題で、レコード会社や芸能プロダクション(ナベプロ)から見ればアイドルコンテンツは「商品」ですから人気が出れば出るほどに本人たちの一存では辞めれない・辞めさせてもらえない(会社として事業が成り立たなくなるから)ジレンマに陥るんですよ。(詳細は色んな方が書いているでしょうから、割愛)それも踏まえた上での彼女たちの「解散宣言(カミングアウト)」だったのかもしれませんが、アイドル産業(人買い)の裏側を垣間見た衝撃的な事件でした。最期の半年間は彼女たちなりのファンや関係者への感謝の活動期間だったのかもしれません。最終的には「微笑がえし」(作詞:阿木曜子、作曲:穂口雄右)で念願のチャート1位に。


山口百恵:
ピンク・レディー、キャンディーズのターゲット層が小中高生なら大人をも魅惑するのが百恵さん。 アイドルの範疇で語るのがもったいないようなソニーの絶対的エース、 14才でデビューし、若くして歌謡界の女王として君臨してましたが(ピンクより1コ下なんです)
77年百恵さんがピンクに出会った時は百恵さん自身も音楽的に急激に成長をしている真っ只中の18才、 そして、自身の持ち味をよく理解していたのか独自路線を探りながら極める方向に突き進んでいきました。 76年の「横須賀ストーリー」で作家に阿木曜子-・宇崎竜童を(百恵さん自ら指名)起用し自身の方向性を確立、 百恵・阿木・宇崎のチームは当時唯一阿久・都倉のピンクに対抗できうるチームで、出すシングルは必ずトップ5ヒットとなります。 変貌期でもある77~79年リリースのシングル群は圧巻でどれもNo1になってもおかしくない出来なんですが、77年の「夢先案内人」でチャートトップを取ったものの以降はトップを取る事はありませんでした。チャート上はピンクが長期間首位を独占(1位固定)していたので、山口百恵か沢田研二が長期間2位を独占(2位固定)していた印象がイメージとしてあります。 さだまさしの「秋桜」、谷村新司の「いい日旅立ち」も名曲ですが、やはりロック調で吐き捨てるようなキメ台詞入りの阿木-宇崎夫妻作品が真骨頂でしょう。1979年6月リリースの「愛の嵐」は好きでした。(ストームストームストームストームストォム・・・、この頃がピークかな)眉1つ動かさないで歌う姿には、、、鬼気迫るものがありました。 いわゆるツッパリ路線なので好き嫌いは分かれると思いますが、ツッパリと言っても百恵さんの場合は忍ばせた投げナイフの銘柄にまでこだわるような花園学園のクールな女番長といった趣き、一途な女らしさもある。非常に少ない動きとまるで変化のない表情でこれほどの凄まじい表現を生み出せるのが百恵さんの持つカリスマ的資質です。「静」で魅了する歌謡の極致に至り「菩薩」とまで表現されました。「動」のピンクとは対極の位置
彼女もまた「私のわがままを許してくれてありがとう。幸せになります」そう言ってステージにマイクを置き、芸能界から去っていくのでした。

1978年4月にキャンディーズ解散、1980年10月に山口百恵引退、1981年3月にピンク・レディー解散
1960年代にアメリカ市場を席巻したビートルズ「ラバーソウル」 に触発されて ビーチボーイズのブライアンウィルソンが「ペットサウンズ」を作り上げたように、天才たちが切磋琢磨して夢中で音楽を作っていた時代が日本の歌謡界にもあったのでした。それはさながらスターによる千夜一夜の夢物語のようでもありました。

ヒットチャート(1977年):
ピンクはソニー軍団を圧倒しましたがヒットチャート上では、「渚のシンドバッド」は沢田研二の「勝手にしやがれ」と抜きつ抜かれつの激しいデッドヒートを繰り広げ、8週間1位を守り首位の座を譲った次の曲もピンクの「ウォンテッド」、「ウォンテッド」は12週1位を独占し、さらに1週開けて次のピンクの「UFO」が10週独占、1977年の1年間約50週のうち計28週ものあいだピンク・レディー作品が1位を独占、翌78年はさらにこの記録を更新して31週1位独占、約2年間の間に63週にわたってシング ル首位を独占することとなった。今思えば怒涛の名曲リリースラッシュ期ですね、77年の初冬は「SOS」と「失恋レストラン」がマイブームで下校時のテーマソング、春休みになって「やさしい悪魔」にいたく感動し、初夏にジュリーの「勝手にしやがれ」で「うわかっこいい!」ってなって、「渚のシンドバッド」でとうとうレコ屋に走らされる、以来、音楽は私にとってなくてはならないものになったのでした。
発売日タイトルアーティストレーベル最高位1位回数売上(万枚)
1976/11/21哀愁のシンフォニーキャンディーズCBS Sony12-22.8
1976/11/21赤い衝撃山口百恵CBS Sony3-50.4
1976/11/21失恋レストラン清水健太郎CBS Sony1562.8
1976/11/25S・O・Sピンク・レディーVictor1165.4
1976/12/5もう一度だけふり向いて桜田淳子Victor11-20.4
1977/1/20しあわせ未満太田裕美CBS Sony4-31.0
1977/1/21初恋草紙山口百恵CBS Sony4-24.1
1977/2/25あなたのすべて桜田淳子Victor6-15.2
1977/3/1やさしい悪魔キャンディーズCBS Sony4-39.0
1977/3/10カルメン'77ピンク・レディーVictor1566.3
1977/4/1夢先案内人山口百恵CBS Sony1146.8
1977/4/1帰らない清水健太郎CBS Sony1254.9
1977/5/15気まぐれヴィーナス桜田淳子Victor8-14.4
1977/5/21勝手にしやがれ沢田研二Polydor1589.3
1977/5/31恋愛遊戯太田裕美CBS Sony13-12.5
1977/6/10渚のシンドバッドピンク・レディーVictor18100.0
1977/6/21暑中お見舞い申し上げますキャンディーズCBS Sony5-29.8
1977/7/1イミテイション・ゴールド山口百恵CBS Sony2-48.4
1977/8/10愛のメモリー松崎しげるVictor2-63.9
1977/8/21遠慮するなよ清水健太郎CBS Sony3-20.7
1977/9/1帰郷/お化けのロック郷ひろみCBS Sony2-40.0
1977/9/1九月の雨太田裕美CBS Sony7-35.6
1977/9/2ゴッド・セイブ・ザ・クイーンセックス・ピストルズColumbia---
1977/9/5ウォンテッド(指名手配)ピンク・レディーVictor112120.0
1977/9/5もう戻れない桜田淳子Victor7-21.0
1977/9/5憎みきれないろくでなし沢田研二Polydor3-62.5
1977/9/21アン・ドゥ・トロワキャンディーズCBS Sony7-28.1
1977/10/1秋桜山口百恵CBS Sony3-46.0
1977/11/3勝手にしやがれ!!セックス・ピストルズColumbia---
1977/11/5しあわせ芝居桜田淳子Victor3-36.5
1977/12/5UFOピンク・レディーVictor110155.3
1977/12/5わなキャンディーズCBS Sony3-39.2
1977/12/5泣き虫清水健太郎CBS Sony15-11.6
1977/12/5禁猟区郷ひろみCBS Sony8-16.1
1977/12/21赤い絆山口百恵CBS Sony4-21.5




参考サイト:
気まぐれオレんちLP:『ピンク・レディー/ベスト・ヒット・アルバム』(1977)
ピンク・レディーの「渚のシンドバッド」がオリコンチャートの1位に輝く。
70年代の歌謡曲に変革を起こした都倉俊一の功績
都倉俊一の音楽体験
千夜一夜物語
山本リンダ『燃えつきそう/山本リンダの魅力』
山本リンダインタビュー
CBS Sonyについて
酒井正利インタビュー
山口百恵と「涙のシークレットラヴ」の出会い
1977年ヒット曲 昭和52年の年間シングルランキング
波乗りパイレーツ(日本吹込盤)
波乗りパイレーツ(夜ヒット)
胸ゆれゆれサーファーガール

2021/05/18

god save the pink lady

「ピンク・レディー万歳」
ピンクレディーの事を日本のセックスピストルズだと誰かが言っていた記憶があるけどなるほどなと思った。 1977年(昭和52年)は不思議な年で、日本列島に突如としてピンクレディー旋風(Pink)が吹き荒れた。同じく英国ではパンクロックムーブメントが発生(Punk)、時が経ってあれは一体何だったんだろう?と振り返って見ると両者はいくつかの近似性を持っている事に気づく。
・性をモチーフにした卑猥とも受け取れるグループ名、セックスピストルズ(性銃)は男性のアソコ、ピンクは英国のスラングで女性のアソコの意味もある。
・7のゾロ目の年に登場した他に比較になる存在がない、唯一無二の存在
・神がかり的な楽曲が10曲(ペッパー警部から~カメレオンアーミーまで)、ピストルズ唯一のアルバムである「勝手にしやがれ」は11曲
・短い活動期間に強烈なインパクトを残して解散、登場前と登場後でそれまでの歌謡史(ロック史)を一変させた。
他にも再結成時期(1996年)までいっしょだったり探せば色々


歌謡ポップス史上、偉大な国民的歌手は数あれど、後にも先にもピンクのような二人組はいない。
しいてあげるなら1996年デビューのPUFFYが近いが市場規模が全然違う、(PUFFYにはピンクのオマージュ的な要素もある。)ピンクが持つ年端もいかない子供たちを強力にひきつける磁力、魅力というのは言葉ではなかなか説明つかない。(そんなアイドルいます?)
他に類を見ないスターというに相応しく、限られた時間を与えられた、どこか遠い星からやってきた存在のように受け手には映る。日本の歌謡界(誰もが情熱を持っていた時代)の金字塔だと思う。

ピストルズとは国もジャンルも違うので比較するものでもないが、
かたや不況にあえぐ英国で「おまえらに未来はない」と若者を愕然とさせたピストルズに対し、
ちびっ子からお年寄りまで(森進一も)歌って踊らせて日本中を気持ちよく楽しく元気にしてくれたんだからピンク最高じゃないの、


嗚呼桃色天国日本



娘心は阿久悠が書く
ピンクはミーとケイに加えて作詞家:阿久悠、作曲家:都倉俊一、振付師:土居甫、ビクターのディレクター:飯田久彦、などからなるプロジェクトチームでもある。

目指したものは?:
飯田ディレクターの念頭にはザ・ピーナッツがありスター誕生で二人を発掘、そしてブレーンとして阿久悠、都倉俊一を呼ぶ。 阿久と都倉のコンビといえばフィンガー5、山本リンダなどピンクのプロトとも言うべきダンサブルなビートの効いたヒットを量産していたので、この二人を召喚したことでピンクの方向性がほぼ決定、さらに土居による躍動感ある振付によってスタイルが確立する。

初期イメージ:
ケイ「歌って踊れてとにかくビートの効いた歌を得意としたい」
飯田「ザ・ピーナッツみたいな歌って踊れるデュエット」
都倉「ディズニー映画じゃないけど、なんかファンタジーな世界を作ろうじゃないかという遊び心」
阿久「もしかしたらゼロになって恥をかくかもしれないけど、100に化ける可能性のある大胆なもの」
土居「アイドル系の顔じゃなくて背もやや高めで足も太くて画面からはみ出すとかもっとパワー的なものが作りやすくなっちゃうんですよね」

グループ名:
五つの赤い風船(モチーフ)→白い風船→ピンク・レディー
他にもチャッキリ娘、みかん箱などグループ名称を決めるのは難航したというw、五つの赤い風船は60年代後半のフォークグループで、フォークというジャンルは赤い思想のヒッピー、団塊世代、学生運動の辛気臭いイメージ、また風船は政治的意味あい(バンクシーの赤い風船など)を連想させるのでオイラはあまりいい印象は持っていない。白い~ならいいわけでもないがいったん「白い風船」に決まりかけて本人たちはサインまで練習したんだとか、さすがに阿久に猛反対されて最終的に都倉のつぶやいた「ピンク・レディー」に決定した。女性をカクテルに見立てた都倉さんらしいセクシーでいて品のいいセンスです、カクテルは飲んだことないけど。
解散時のさよならコンサート(後楽園球場)では花の種が入った5000個の「ピンクの風船」を打ち上げたがその後その種がどんな花を咲かせたか知る人はいるだろうか?

テレビ番組「スター誕生」について:
「歌い手さんの気持ちになるとね、あの番組は「人買い」みたいなイメージがあって、みんなの見ている前で落ちるっていうのはねえ、涙見てるとすごく切なくなるので、現場には行きたくないし、あんまり関わりたくないなと最初は思ってはいたんです。」
自身もロカビリーアイドルだった飯田久彦(チャコ)のこの言葉で思ったのは、アイドル歌謡界は職業作家というプロの作詞家作曲家(先生と呼ばれる)がいい曲を作ってはじめて成り立つ、作家陣も人の子だからどれだけアイドルに愛情があるかで曲の質(モチべ)も変わってくるだろう、つまりヒットになるようないい曲を作ってもらうために枕営業が後を絶たないだろうということ、阿久らが企画した「スター誕生」方式を極端に推し進めたのが秋元康のAKBだったりするわけで、、、(あーヤダヤダ)
逆に飯田久彦はアイドル側の視点を持っていたために問題意識がありピンクを売り出す際には丁寧にサポートしていただろうことが伺える。

2枚目のシングル「SOS」:
有名な「男は狼なのよ~」の歌詞は男であるオイラには微妙な響きですが、リンダプロジェクトでもやってましたが、どこかしら必ず入ってくる阿久悠のフェミ志向はピンクレディーでも意図的に踏襲されています。 これは「ガイ・イズ・ア・ガイ / 江利チエミ」(1953年2月発表)の「男はみんな狼よ」からの流用、同曲のパロディでありながら、これから芸能界というエゲツナイ業界の中で生きていく少女に対する親心のような、忠告のような、阿久の本心も滲ませているのかもしれない。今、SOSの歌詞を読むとピンクの二人に宛てたメッセージのよう、案の定、後にピンクと恋人のどちらを取るか二者択一を迫られることになるケイの運命を予見しているような歌詞でもある。

「SOS」

(映像は夜のヒットスタジオより、1977.1.3)

男は狼なのよ 気をつけなさい
年頃になったなら 慎みなさい
羊の顔していても 心の中は
狼が牙をむく そういうものよ
この人だけは 大丈夫だなんて
うっかり信じたら
駄目 駄目 ああ駄目駄目よ
SOS SOS
ほらほら呼んでいるわ
今日もまた誰か 乙女のピンチ

うっとりするよな夜に ついつい溺れ
そんな気になるけれど 考えなさい
瞼を閉じたら負けよ 背伸びをしたら
何もかもおしまいよ そういうものよ
昔の人が 言うことみたいだと
ぼんやり聞いてたら
駄目 駄目 ああ駄目駄目よ
SOS SOS
ほらほら呼んでいるわ
今日もまた誰か 乙女のピンチ

SOS / ピンク・レディー
作詞:阿久悠 / 作曲:都倉俊一 / 1976.11.25



ミーとケイ
ピンク旋風が吹き荒れた77年~78年は二人は常にテレビに出ていたので、誰もが知るところだが79年以降はブームもトーンダウンしていき、アメリカに行った話も詳細は不明、解散の要因も謎に包まれたままだったが今はネット(YouTube)で知ることができる。余談だが79年といえばインベーダーゲームとYMOが大流行した年、子供たちの関心も移ろい変わっていく。

ピンクはルックスも声も良くて元気なミーちゃんが人気でリーダー的立場なのだろうと長らく思っていたが、どちらかというと年上(同学年だけどケイが半年早い)のケイちゃんが芯が強く、グループの支えになっていたらしい。ミーちゃんはもともと引っ込み思案な性質で、二人が出会うきっかけも最初に声をかけたのはケイちゃんから(?)
ミーとケイのパーソナリティは当時は知る由もなかったが、最近思うのは、ミーちゃんは家が厳しいのもあってきちんとしている。ケイちゃんはちょっと天然入ってる。 追記・ 声をかけたのはミーちゃんのほうからだったようです。(ケイちゃんの記憶が正しければ、出会いの経緯は以下のように)
ミーちゃんが静岡市立末広中学校に転向してきたのが中一の時(1970年12月)、ケイちゃんが末広中学に転向してきたのが中二の時(1971年4月)、ケイは二年の時には必修クラブで合唱部に入っていたが合唱部が無くなってしまったため、演劇クラブを選び、三年生の4月(1972年4月(5日か12日?)ケイちゃんの現在の記憶だと4月だけど、ここは疑問が残る点、ケイちゃんが演劇部に入って来るのはケガのためにバスケット部を退部し初夏に途中から入部したと紹介されている情報もあり、コーラス部が廃部になったから演劇部に入ったのはミーちゃんの方じゃなかったっけ??)、初顔合わせみたいなのがあって(水曜日の7時間目)、授業が終わり渡り廊下を歩いてたら後ろから声をかけられたという(この時点でミーちゃんはバスケ部で目立っていたケイちゃんの事を一方的に知っていた。)




「あの・・・ケイ、転校生のケイよね」




「私、根本美鶴代っていうの、さっきあの必修クラブで一緒だったわね」っていう話で、逆光でよくみえなかったんですけど三つ編みしてて、麦わら帽子かぶってるような、本を抱いてるような感じ、もう消え入りそうな声で、可愛い優しい高い声で自己紹介していて、それが初めての出会い。(ケイちゃん談)

時代の寵児となっても歌謡界での立場はデビューしたばかりの新人である。なのにそこへ山口百恵、キャンディーズらそうそうたる諸先輩方が打倒ピンクを掲げ全身全霊で立ち向かってくるのだから、重圧はかなりのものだったろう。(ただピンクのおかげで歌謡界全体のクオリティが上がるのだから見てるほうは楽しい。ピンクがトップを走っていた77年~78年は日本歌謡界の黄金時代ではなかろうか)
しかも苛酷な過密スケジュールのため歌番組のスタジオ入りはいつも遅れてやって来て先輩を待たしていたという。(想像でしかないけど、これ日本社会だと物凄い重圧を感じるよね。待つストレスと嫉妬の入り混じった空気...怖い)
それ以上に超絶過密スケジュールで頭がオーバーフローを起こしていてケイは当時のほとんどの事が記憶にないらしい...。しかも寮ではメシなし、冷水シャワー、シャンプーも使わせてもらえないといった虐待に近い生活、笑顔の裏でそんな生活をしていたとは...絶句!

たしか77年の絶頂期にケイが緊急入院してミーが一人でピンクをやってた時期があって、やっぱり肉体的にも精神的にも疲れは相当だったんだろうなあと思います。
加えてその時はミーの一人姿に「もの凄く違和感」を覚えました。隣にケイちゃんがいないのがきわめて不自然。ミーの隣はケイ、ケイの隣はミー、いない事はありえない。ピンク・レディーという存在が個々を超越してしまっているからだろうか、替えがきかないんですよ。二人揃ってはじめてピンクレディーになる。というような、(UFOの時だったと思うけど、1人ピンクの映像は探したけど見つからなかった、)

人間性と芸能ビジネスとの間のゆがみをまともに受けてしまったケイちゃんが徐々に病んでいったのが解散の要因にもなっていると我々は後年知ることになる。 2012年放送の番組「ザ・プレミアムトーク」内でミーちゃんがケイちゃんに宛てた手紙には、涙、涙、



参考サイト:
ザ・プレミアムトーク
ピンクレデイープロジェクト(驚きももの木20世紀)
ピンク・レデイー特集(金スマ)
ピンク・レデイー解散までのまとめ
ピンク・レディーの楽しい道
飯田久彦インタビュー
S・O・S
ピンク・レディー ケイちゃん登場
スター誕生の合格の裏に隠された綿密に計算された戦略を探る

2021/04/17

ambush

「まちぶせ」


夕暮れの街角 のぞいた喫茶店
微笑み見つめ合う 見覚えある二人
あの娘が急になぜか きれいになったのは
あなたとこんなふうに 会ってるからなのね

好きだったのよあなた 胸の奥でずっと
もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる

気のないそぶりして 仲間に加わった
テーブルをはさんで あなたを熱く見た

あの娘がふられたと 噂にきいたけど
わたしは自分から 云いよったりしない
別の人がくれた ラヴ・レター見せたり
偶然をよそおい 帰り道で待つわ

好きだったのよあなた 胸の奥でずっと
もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる

好きだったのよあなた 胸の奥でずっと
もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる
あなたをふりむかせる

まちぶせ -I'll Make You Mine- / 荒井由実
作詞・作曲:荒井由実 / 編曲:松任谷正隆
original 1976 / self cover 1996


冒頭の不協和音からキーの高いピアノに続いて現れる大きめな女性の影、レゲエ調のビートにオリジナルにはなかった可愛らしい振付、このときユーミン42才(「まちぶせ」を書いたのは22才の時)
おそらくストーキング行為(歌詞への批評を逆手にとったような)をあえて意識して作ってるでしょうこの「待ち伏せ」はちょっとかっこいい。

清純なアイドルのヒット曲が、同じ歌でも歌い手や演出やアレンジでここまで印象が変わるんだなあと感心、ユーミンいいねヘビロテ。

2021/03/13

general violence

「暴力大将」
クローズ、WORSTなどの高橋ヒロシの作品が好きなんだけど、作者本人も広言している通り随所にどおくまんの影響が見られる。 相当好きならしい。どおくまん作品は男子ならヤラレタ方も多いんじゃないでしょうか、泥臭く下品でリアルで筆のタッチも荒く決して上手い絵ではないがつきぬけた魅力を放っている。

なかでも「暴力大将」は不良漫画史上ベストと言ってもいいくらい面白い。設定は昭和15年(1940)~昭和30年(1955)で大きく分けて次の4編からなる。
・小中学校編(尋常小学校、高山中学校)
・河内矯正院編
・戦争編(バターン半島沖コレヒドール島、死の島ガダルカナル)
・戦後闇市編

暴力大将で描かれる不良少年の生きた時代は激動の時代、 死人部隊となって囮にさせられ大東亜戦線におくりこまれる。敵は重武装したアメリカ兵であり軍部である。 あの時代を扱った作品自体が非常に少ないので歴史大河作品(歴史の闇)としても楽しめる。 河内矯正院から話が一気に盛り上がるが、暴力度が凄まじく、バトルというか、ナイフ、丸太、石、斧、ライフル、ピストル、弓矢、槍、ダイナマイトを使った殺し合い。 強烈な戦闘描写は脳裏に焼き付いて離れないほど。

脇役にクセがあってそれぞれのキャラが作りこまれているのがリアル、 イケメンも草食男も萌えキャラも女もいない、戦闘時にいちいち苦悩するナイーブなアムロくんもシンジくんも出てこない。 ごっついいかつい男、漢、侠だけの世界


力動 剛(りきどう ごう)
河内の暴力大将の異名を持つ主人公、大の喧嘩好きで、喧嘩で中学校を壊して矯正院に入所させられる。 町の易者曰く「万に一つの天下取りの相」を持つ、義理人情に厚く人の上に立つ器の持ち主、河内矯正院、大東亜戦争を通して男としても成長していく。ジープを持ち上げ、戦闘機に投げつけるほどの怪力、手榴弾投げ200M、WORSTの月島花のモデルらしい。

武田実三 (たけだ じつぞう)
力道剛が入れられた河内矯正院第四組第31号室の室長
殴られても何度でも立ち上がるタフな熱血漢、力動にボコられても向かっていったことから「根性ある」と評価される。頬まで生えたもみあげが特徴的、こんな野暮ったい顔した中学生は見たことないんだけど、、、

黒木栄二郎(くろき えいじろう)
額に十字傷の白髪の男、行方不明となった兄(栄一郎)を探しに矯正院に潜入、 力動にその腕を買われて片腕的存在に。 拳法の達人で身のこなしが軽く参謀としても有能、頭が良く参謀として戦術面で力動をサポートする。敵を偵察しにいったと思ったら次の瞬間は力動の傍らにいるんだから力動組になくてはならない存在。 時折見せる男気も素敵なのでファンも多いでしょう。 本作品には幾多の戦闘シーンがあるが勝敗は戦術によって決まるといっても過言ではない事を教えてくれる。 バトル漫画だとガチで真正面からぶつかっていくパターンが多い中、敵の戦力を偵察、諜報、分析して、勝つために戦術を駆使していくリアルさも本作品の魅力

増井弁達(ますい べんたつ)
第四棟組頭
河内矯正院には第一棟から弟六棟まで6棟の収容施設があり、各棟には30人収容の大部屋が8~10室ある、力動の入所した31号室から38号室までは第四棟に属しており、その第四棟全体をしきってるのが増井、 四角い顔の額に丸い瘤、一見してリアルにいそうでこちらが身の危険を感じるほどに増井はインパクトある。 増井と力動とのバトルは作中2度あるが一コマ一コマが壮絶で手に汗握る名シーン、キレると全身の血管が浮き上がりピクピク痙攣する。「ちわーっ」の気合も特徴的、手榴弾投げ99M

三好空海(みよし くうかい)
第二棟組頭
第一棟~第六棟からなる河内矯正院ではもっとも実力のある勢力が藤助や村岡(11号室長)を擁し三好率いる第二棟(11号室から20号室)、 首から数珠をかけた僧侶のようないで立ちの巨漢、数珠は相手を締めあげる際に武器として用い丸太をもへし折る。増井よりデカく作中では根室に次ぎガタいが良い。 頭の中心部を剃った聖職者にも見えるヘアスタイルも類を見ない怪僧、 戦争編に突入した際の軍服姿の雄姿は恰好良すぎて好き。手榴弾投げは調子悪くて98M、 モデルは真田十勇士の三好清海入道、高橋ヒロシ作品にも化け物のような出で立ちで強くて魅力的な男が数多く登場するがその影響が見て取れる。

伊賀藤助 (いが とうすけ)
三好がしきる第二棟の幹部(おそらく室長)、 忍者のように身の軽い出っ歯で醜悪な小男、こういうおっさん顔は昭和の昔にはよくいたような、、 釘を手裏剣のように使う。 風呂場で入浴中の力動を襲う初登場シーンは衝撃的、人はリラックスしてる時が最も無防備で弱い、そこを容赦なく狙うという徹底したリアリズムにトラウマ必至、藤助の力動強襲を合図にして抗争がスタート、弟四棟と第二棟の抗争は熾烈を極める作中随一の面白さで、力動VS三好、黒木VS藤助の好カードが揃う、 黒木との忍者バトルは後のナルトVSサスケを彷彿とさせる(させない)、力動組に入ってからは主に偵察要員として活躍、名前の由来は大正時代の活動写真映画「忍術藤助」から(?)

根室武蔵 (ねむろ たけぞう)
第六棟組頭であり矯正院の総部屋長として君臨して矯正院全体を支配している。 恐ろしいまでに醜悪なルックス、おそらく少年漫画史上もっとも醜い化け物キャラの一人だと思う。悪魔のような偶像崇拝者であり、 登場時は悪魔の仮面、全面戦争時は牛の仮面を被りおどろおどろしい雰囲気を持つ、握力で人の頭を頭蓋骨ごと握りつぶすほどのパワー(バキより強くないか?)、また分が悪くなると〇〇ジと合体するという手段を選ばない卑劣な奥の手を使う。 鬼滅の伊之助のモデルなのかは不明

黒木栄一郎(くろき えいいちろう)
行方不明となっていた黒木栄二郎の兄、 力動が矯正院に入所する3年前に河内矯正院に入所している、 バトルシーンは回想シーンのみで、当時、根室に次ぐ実力者だった大山を倒すも根室と壮絶な死闘の末に敗れ地下牢に幽閉されている。 弟の栄二郎と再会を果たすもおそらく認識できていないほど廃人となっている。 尚、黒木兄はどおくまん漫画には必ず登場する「花の応援団」の青田、「花沢高校」の獣田など別次元に強い超人キャラに相当、 この規格外に強いキャラの存在という設定はクローズのリンダマン、WORSTの花木九里虎の位置にも影響を見て取れるが、 本作品では活躍する場面はなく根室により地下に閉じ込めらている。廃人同様となった姿はどおくまんファンからすれば矯正院という闇の凄まじさを強烈に印象づける。 河内矯正院編「黒木栄一郎外伝」があれば読みたいんだけど。

矯正院親衛隊

地獄院と呼ばれる河内矯正院を取り仕切る院長とその親衛隊、 収容生に対する刑罰は残酷をきわめ、 凶悪な収容性からも恐れられている。 中央の小男が院長の薬師寺、自分とそっくりの猿を飼っている。 秋山(右端)は根室と対峙し壮絶な最期を遂げる。

この他にもモヒカンで顔面傷だらけの第一棟組頭・杉山竜三、斧を振り回す第三棟組頭・友田、ヌンチャクを振り回す第五棟組頭・荒木田独歩、戦争編に入ってからは第2の死人部隊として関東天海組の天海竜馬とその子分、等々多くの侠(おとこ)たちが登場して熱いバトルを繰り広げる。




君を君を閉じこめる奴の気が知れないぜ
君を君を閉じこめる奴は君に気づかない
火の中を駆ける君こそステキさ
嵐に花を咲かす君がイイ!イイ!イイ!イイ!

電光石火に銀の靴
これが君へのプレゼント
電光石火に銀の靴
これが君へのプレゼント

サイクルの耳飾りと
シルバーのサングラスと
ピンクのシャドウと
ブルーのドレスが君らしい

君を君を閉じこめる奴の気が知れないぜ
君を君を閉じこめる奴は君に気づかない
イナズマにキスをする君こそステキさ
シャウトの夜をドライブする君がイイ!イイ!イイ!イイ!

電光石火に銀の靴
これが君へのプレゼント
電光石火に銀の靴
これが君へのプレゼント




暴力大将 / どおくまん / 1975~1985 / 月刊少年チャンピオン
電光石火に銀の靴 / 泉谷しげる / 1977